4-2定命の御文 迷いの根 ーコントロールできない命をコントロールしてるつもりになっている闇ー | 新・坊主日記

新・坊主日記

2007年2月22日からブラジルの、サンパウロ別院でお仕事をする事になりました。
日本とは場所も言葉も文化も違うところですが、人間が喜怒哀楽の中で生きているのは同じです。
沢山の人たちに出会って共に学び合いたい!
坊主日記、2014年からはマリリア編に突入!

4-2定命の御文 Bom dia Rito matinal do Templo em Marília. ブラジル🇧🇷お寺から朝のお参り中継

 

おはようございます。

今日は朝からファビアが来てくれて一緒にお参りができました。普段は孫のニコラスの世話に娘のタイスちゃんの家に泊まり込んでいるのです。タイスちゃんの旦那は軍の警官で現在サンパウロ市に単身赴任なのです。子供が生まれているのに別々の場所で暮らすのは辛いことだと思います。 そんなわけでファビアは娘の家に泊まり込みで助けてあげているのです。

 今日はお参りの後に一緒に朝市に買い出しに出かけました。新鮮な食材を手に入れて一緒にお昼ご飯をいただきました。

その後お寺の掃除とか、仏花の立て替えまでしてくれました。家の掃除も。でも夕方にはまた戻っていきました。

寂しいですが仕方ありません。

 

 

 

さて、今日は阿弥陀経のお勤めです。

伽陀

 

阿弥陀経 8ページ

短念仏

和讃 十方微塵世界の 添 万行の  50ページ

回向 願以此功徳

です。 御文はページの下に原文を掲載して、リンクを辿れば言葉の意味もわかるようになっております。

最後に私の感話を書いています。 感想や質問、なんでも書き込みしてくださいね。

 

 

 

4-2定命の御文

 

 それ、人間の寿命をかぞふれば、今の時の定命は五十六歳なり。しかるに当時において、年五十六まで生き延びたらん人は、まことにもつていかめしきことなるべし。これによりて予すでに頽齢六十三歳にせまれり。勘篇すれば年ははや七年まで生き延びぬ。これにつけても、前業の所感なれば、いかなる病患をうけてか死の縁にのぞまんとおぼつかなし。これさらにはからざる次第なり。

ことにもつて当時の体たらくをみおよぶに、定相なき時分なれば、人間のかなしさはおもふやうにもなし。あはれ死なばやとおもはば、やがて死なれなん世にてもあらば、などかいままでこの世にすみはんべりなん。ただいそぎても生れたきは極楽浄土、ねがうてもねがひえんものは無漏の仏体なり。しかれば、一念帰命の他力安心を仏智より獲得せしめん身の上においては、畢命為期まで仏恩報尽のために称名をつとめんにいたりては、あながちになにの不足ありてか、先生より定まれるところの死期をいそがんも、かへりておろかにまどひぬるかともおもひはんべるなり。

このゆゑに愚老が身上にあててかくのごとくおもへり。たれのひとびともこの心中に住すべし。ことにもつて、この世界のならひは老少不定にして電光朝露あだなる身なれば、いまも無常の風きたらんことをばしらぬにてすぎゆきて、後生をばかつてねがはず、ただ今生をばいつまでも生き延びんずるやうにこそおもひはんべれ。あさましといふもなほおろかなり。いそぎ今日より弥陀如来の他力本願をたのみ、一向に無量寿仏に帰命して、真実報土の往生をねがひ、称名念仏せしむべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

時に文明九年九月十七日にはかに思ひ出づるのあひだ、辰剋以前に早々これを書き記しをはりぬ。

                         信証院六十三歳]

  かきおくもふでにまかするふみなれば ことばのすゑぞをかしかりける

 

感想

 

蓮如上人が自分の身に引き当てて人間の無常の身を切々と説いてくださっています。今回非常に参考になったのは以下の意味です。

今の時の定命

いまのときのじょうみょう…

 釈尊の入滅時を起点として、時代が百年を経過するごとに人寿が一歳減少するという説にもとづいたもの。当時は釈尊の入滅後、約二千四百年と考えられていたから、釈尊の寿命八十歳より、二十四歳を減じて、定命を五十六歳と計算した。(御文章 P.1163)

そういう平均寿命の数え方があったとは!驚きました。

 

 

蓮如上人は無常の世であるから阿弥陀仏を信仰しなさいと念仏を勧めているように文章の次第になっていますが、阿弥陀仏の教えに出会ったからこそ、コントロールできない生命をコントロールしているつもりになっている愚かな私がはっきりと照らされていることが浮き彫りになっています。

 念仏を勧めるために無常を説いているのですが、念仏の教えに出会ったものが知らされる世界があさましく愚かなこのわたくしなのです。その時はもう阿弥陀仏の仏智の光に照らされているのです。

 この文体は蓮如上人のお手紙全体に流れている特徴であるのではないでしょうか。

 その源流はもちろん南無阿弥陀仏の南無と阿弥陀仏の解釈の働きそのものの文体だと感じます。

ですから一見仏教の真理にであう方法論が書いてなく、念仏を持ち上げるだけのように見えるのですが、仏教の教えは方法論では救われない人間を救おうとしているのでこういう文体が多いのだと思います。

 

 

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