3ー5諸仏悲願の御文Bom dia Rito matinal do Templo em Marília. ブラジル🇧🇷お寺から朝のお参り中継🙏
おはようございます。
ブラジルでも5月末まで自粛が伸びました。日本とは違いお寺は集会を開いたら罰金というきついお達しです。
お寺ではそんなに接触をするわけではないのに、もっと接触する機会のある食品店は一定の規則のもと許されているのです。 それを言ったら食料は無くなったら困るからだ、と言われました。 ではペンキやさんや、水道屋さんは最初は閉めていましたが緩くなり、店舗に人がたくさん入らなければ大丈夫という緩やかな規制になっていると言ったら、建築素材は家がなかったら雨風を凌がなければならないので生活必需品なのでそれで大丈夫なのだ、と言われました。 そういうふうに言われるとお寺は命には関わりないから要らないと言われているような気分になりました。 しかし、ここマリリアでは自粛で外に出る事を家族に禁止された老人が自死するという痛ましいことが起こりました。
人間には食料も必要でしょう、雨風を凌ぐ家も必要でしょう。しかし人には愛や信頼、自由という精神の食べ物や心をつつむ家が必要なのです。
お寺(教会)は無条件に集会禁止、サンパウロ市内では葬儀も禁止。というお達しは、人が何によって生きているか知らない観念に毒された政策でしょう。 改めるべきなのです。
さて、今日は阿弥陀経のお勤めです。
阿弥陀経 8ページ
短念仏
和讃 十方微塵世界の 添 万行の 50ページ
です。 御文はページの下に原文を掲載して、リンクを辿れば言葉の意味もわかるようになっております。
最後に私の感話を書いています。 感想や質問、なんでも書き込みしてくださいね。
3ー5「諸仏悲願」の御文
そもそも、諸仏の悲願に弥陀の本願のすぐれましましたる、そのいはれをくはしくたづぬるに、すでに十方の諸仏と申すは、いたりて罪ふかき衆生と、五障・三従の女人をばたすけたまはざるなり。このゆゑに諸仏の願に阿弥陀仏の本願はすぐれたりと申すなり。
さて弥陀如来の超世の大願はいかなる機の衆生をすくひましますぞと申せば、十悪・五逆の罪人も五障・三従の女人にいたるまでも、みなことごとくもらさずたすけたまへる大願なり。されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、かならず十人あらば十人ながら、極楽へ引接せんとのたまへる他力の大誓願力なり。これによりて、かの阿弥陀仏の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにとやうにたのみ、なにとやうに機をもちて、かの弥陀をばたのみまゐらすべきぞや。そのいはれをくはしくしめしたまふべし。そのをしへのごとく信心をとりて、弥陀をも信じ、極楽をもねがひ、念仏をも申すべきなり。
答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。京・田舎のあひだにおいて、浄土宗の流義まちまちにわかれたり。しかれどもそれを是非するにはあらず、ただわが開山(親鸞)の一流相伝のおもむきを申しひらくべし。それ、解脱の耳をすまして渇仰のかうべをうなだれてこれをねんごろにききて、信心歓喜のおもひをなすべし。それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。「摂取不捨」といふは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにをさめとりてすてたまはずといへるこころなり。さればこの南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまへる支証のために、御名をこの南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。
かくのごとくこころえわけぬれば、われらが極楽の往生は治定なり。あら、ありがたや、たふとやとおもひて、このうへには、はやひとたび弥陀如来にたすけられまゐらせつるのちなれば、御たすけありつる御うれしさの念仏なれば、この念仏をば仏恩報謝の称名ともいひ、また信のうへの称名とも申しはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六年九月六日これを書く。]
感想
今回は、諸仏と阿弥陀仏の関係を親鸞聖人の「正信偈」を元に説明しました、説明しているうちに諸仏の願を私たちの日常の願いに置き換えて考える視点が現れてきて、そうなると、私には毎日変わっていくその場的な願いとずっと思い続けている願い、そして自分には思うこともない願いがあるのではないか? と思いました。 諸仏といっても他の宗派の仏様と考えるのではなく、いわゆる世間的に自分が思っている欲望と捉えたらもっとこの御文が身近な問題として読めるのではないかと思いました。
ここでは語られていませんが、他の文章の中には神社や神様も同様なテーマで語られています。私たちのその時代、所属する場所個人的な気持ちで願いや、欲望は移ろっていきますが、生涯を通じてどうしても大切な願いがあるのだという事を教えてくれているのではないでしょうか? その、一つの大切な願いに出会うことができた時、つまらないような、欲望のような、自分を突き動かす願い一つ一つは実はこの大切な願いに到達するためのかけがえのない願いだったといえるのではないでしょうか。その時大きな懺悔の心があらわになり、阿弥陀仏として表されるの本願他力の智恵の光に出会あう。その出遇い全体が「南無阿弥陀仏」として表現されているのではないでしょうか。 そうであれば、つまらない願いはなく、つまらない人生もない。すべて自分自身の大切な命の営みとして感謝の心が紡がれていくのだと思います。
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それではまた明日! 😃
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