2023年1月14日:さよなら三角またきて四角 | たっくう投げ釣りと日々

たっくう投げ釣りと日々

大好きな投げ釣りと、日々の忘備録です。
最近物忘れが激しいのであります。

年末におふくろが逝ってしまいました。足を悪くしてからは殆ど家から出ることもなくなり、兄弟から施設に入るよう説得されても頑として聞き入れず、医者から処方された栄養剤は手を付けないまま、日々の食事は僕が届けるスーパーの総菜、刺身とビール、たまにコンビニおにぎり、という暮らしを5年近く続けていましたが、12月の初旬、珍しく”しんどい”というので医者に診せたところ即日入院、その僅か2週間後にあっけなく逝ってしまったのです。

 

生まれは兵庫県の尼崎市だそうですが、戦火を避けて母親の郷里である岡山へ移り、中学を出てからは働きながら看護学校に通ったと聞いています。いきさつはよく知りませんが、大阪は八尾市の市民病院で40年間看護師として勤めあげ、還暦前にケアマネージャーの資格を取って70過ぎまで現役を続けていたという人です。時はまさに昭和40~50年代、母ちゃんは家に居るのが普通だった時代に、さぞかし仕事と子育ての両立で苦労されたことだろうなどと思うなかれ、まぁ何と言いましょうか、少なくとも母親としては相当アレな人でしたね。

 

とにかく仕事が好きだったんでしょう。家に居ることがそもそも少ない上に。半年近く東京へ研修に行っていたこともありました。自分自身ちょっと母親としての役割を半分諦めていたようなフシもありましたね。

 

小学生の僕が夏休みの1ヶ月間を岡山で過ごしたり、一人で電車に乗って加古川の河口護岸でメバルの探り釣りをしたりしていたのは、そういった、いささか家庭的ではない母親の元で育ったからに他なりません。今に思えば僕を預かってくれた親戚のみなさん、当時は本当にお世話になりました。さぞかし迷惑をお掛けしたことでしょう。

 

 

信じられないかもしれませんが、僕はこの人の手料理をほとんど食べたことがありません。これ、本当の話しです。親父が亡くなった時、アルバムを整理していたら古い集合写真が出てきたことがあります。その隅っこには若い頃のおふくろが写っていて、「〇〇(おふくろの旧姓)さん、もの静かな人、でも料理の腕前はバツグン」と手書きのキャプションが添えられていました。

 

その写真を本人に見せて”いったい何十年爪を隠しているのか?”と冗談っぽく言ったところ、ぶすっとむくれながら卵焼きを作ってくれたのを覚えています。つまりそんな事が思い出になるくらい家事をしない人だったわけで、親はなくとも子は育つ、とはよくいったもんですね。

 

映画が好きなひとでした。彼女との母と子としての思い出は、年に何度かよそ行きの服を着て難波の南街劇場へ洋画を観に行ったことです。僕の映画好き、映画音楽好きはおふくろの影響だと思います。アラン・ドロンのドロボーものとか、ロジャー・ムーアの007とかは何度か観に行きましたね。ヤサオトコ系の俳優が好みだったようです。

 

 

あまり会話のなかった親子でしたが、おふくろが出歩かなくなってからはそれまでの50年分か、それ以上の色んな話をするようになりました。ふたりでテレビを観ながら出演しているタレントの話をする、なんて普通の事も初めて経験しましたね。

 

人生何だかんだで帳尻が合うといいましょうか。最後の何年かを長い時間一緒に過ごせたことは。。。上手く言えませんが少しホッとしていますね。