窓のむこう -3ページ目

一般病棟にて…その7

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2007年9月3日(月)ー入院生活17日目。



それまで10階の廊下にある
手摺などを使いながら歩行訓練していたが、

身体から3点セットが外され身軽になると、
2階の「リハビリ室」に来ても良いという。

リハビリ室には色んな器具があって沢山訓練が出来るんだと、
ICUでN先生は言っていた。

あの日から2週間しか経っていないのに、
その日がいよいよやって来たのだ。



朝、食堂で書字練習し、ロビーで手の訓練をし、
朝食と回診、朝の入浴を終える。

いつものパジャマでなく短パンTシャツと普段着になる。

夏場だったのが幸いした。
半袖はマヒした右腕をまだ通し安いが、
長袖などなかなか通らずにイライラとしてくる。

ルパンが描かれたクリーム色の長袖シャツを母親が好意で用意してくれたが、

それが着れない自分に腹が立ちベッドに投げつけた事もあった。



10時頃に2階のリハビリ室に行く患者が、
5、6名ロビーに集まる。

当然全員が車椅子に乗っている。


両手が使えず巧く車椅子を運転出来ない患者は、
スタッフが連れて来てくれる。

僕はリハビリ室の場所さえ分かれば一人でも行けたが、
この日は初めてなので大人しくロビーで待っていた。



患者は皆気力を削ぎ落とされたような面持ちだった。

口が半開きで定まらぬ視線で天井を虚ろに眺める老女。

よだれを垂れながら何処かに微笑している
白髪の禿げ上がった男性。

不思議そうに僕をなめ回す眼鏡おばちゃん…等。

でも彼らには押しつけの同情よりも、

一歩狂えば僕もそこに居たかもしれないという同胞意識があった。

一緒に頑張って這い上がりましょう。あなたも僕も。



暫くすると眼鏡を掛けた若い男性が
皆を2階まで誘導してくれる。

「今日も元気にいきましょうね!」

笑顔でそう言う彼の眼鏡の奥からは、
偽りじゃない本当の優しさを感じた。

機能を喪失した患者に接しそれを補う仕事をしていると、
こんな穏やかな顔になるのか。



職員用エレベーターに乗り2階へ下りる。

エレベーターを下り2階に踏み出すと、

左にはコンビニや食堂、天井から陽の注ぐ沢山の外来診察室。

右に行った突き当たりの廊下には職員用の更衣室や専用の出入口がある。

そこは寝静まった沈黙の10階とは違い、
人の息遣いのする汗ばむような活気を感じた。



リハビリ室はその廊下を左に行った所にある。

受付の女性が笑顔で会釈する。

入口を入るとすぐに巨大な貼り絵が眼に入る。


赤や黄色の折り紙をちぎって、
それを畳みサイズの模造紙にのり付けしてある作品だ。
貼り絵は葉一杯の力強い一本の樹木を描いていた。

まだ完成前なのか、根に近い部分は鉛筆での下書きだけだ。

樹木の背景には大きくメッセージが描かれていた。



「ゆっくりと ゆっくりと」



大木が何百年もかけて幹を太らすように、
患者も焦らずゆっくりと己の芽吹きを感じよう。

そんな解釈をまるで子供に押し付けるようだった。

だが病気の事もよく分からず、
風邪のように明日には完全に治ると今日と明日を完全に線引きし、

完治をとかく急いでいた僕に、
熱い腫れ物を冷ますように優しく風を送ってくれたのは、いつもこの言葉だった。



正面奥にはPT室。
左にはOT室とST室。

最初は呪文のようなこれらの言葉の意味が分からなかったが、

PTは「Physical Therapist(フィジカルセラピスト)」、

OTは「Occupatinal Therapist(オキュペイショナルセラピスト)」、

STは「Speech - langusge - hearing Therapist(スピーチ ランゲージ ヒアリング セラピスト)」の略で、

今まで足の先生と言っていたN先生は「理学療法士」。

手の先生のY先生は「作業療法士」。

言葉の先生U先生は「言語聴覚士」と正式には呼ばれるらしい。



PT室の広さは20×20m位あり、

高さ30センチ程で1.5帖程の大きさのビニール製ベッドが、
赤や緑の色違いで10個位並んでいた。

4段のL字型階段や大小のサイクリングマシーン、
両側に手摺のついた歩行訓練器、

見た事の無い様々なトレーニングマシーンや道具が沢山揃っていた。

それらが全て見渡せる机には先生達のノートパソコンが置いてある。



OT室はPT室の半分位の広さで、
2つのベッドと3つの机、患者用の台所と小上がりになった畳部屋、

脇には先生達のパソコンや書類が山積みになった小さなデスクがある。

左側に2つある3帖程の小さな部屋がST室みたいだ。



リハ室にはたくさんの人がいた。

PT室には8名程の理学療法士と30名程の患者、

OT室には3名の作業療法士と6名程の患者、

ST室には2名の言語聴覚士と2名の患者がいる。

N先生、Y先生、U先生もその中にいた。




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PT室のN先生がパソコンで真剣に
データ等を確認している真面目な姿を見ると、

遠い親戚のような気さくな先生が
今日は医療に従事するお固い人種に思える。

それが当たり前の事なのだが。



「あら~須山さん。やっと2階に来れましたね!」

先生は僕を見つけると、早速「装具」を持って来た。

装具は10階の廊下での歩行訓練時にも使用していたが、

足首からふくらはぎを覆う、
乳白色でプラスチック製の足の補助具だ。

足首とスネの角度が90度になるよう固定するもので、

これが無いと足首はダラリと伸びてしまい、
歩く時につま先が床に当たり転倒してしまう。


10階なら装具を着け歩行訓練をすぐ始めるが、
ここでは一旦それを脇に置き、
違ったメニューをこなしていくようだ。



僕はベッドに仰向けに寝るように言われ、
先生は僕の右足を抱えると二の腕を使って足首をグイッと曲げていく。

僕の右足の後側の筋肉を伸ばしているのだろうか。
僕の筋肉の柔軟性を確認していたかもしれない。

何も知らない僕はリハビリ室に来れた喜びと、
これからの期待感を噛み締めていた。



「じゃあ始めましょうか」


仰向けになった状態で両膝を立て、
お尻を上げて行く。これを30回。

それが終わったら、
うつ伏せで右膝を20回曲げる。


お尻は震えながら何とか浮かせる出来るが、
膝には力が伝わらずなかなか持ち上げられない。

曲げるだけの単純な軌道のはずなのに、
右足はプラプラと散漫な動きになってしまい調整が出来ない。


これも出来なくなっている…



次は、ベッドに腰掛け両手を前に伸ばして、
立ち上がりの訓練を30回。


ベッドに座った腰と腿に力を込めて、
小刻みに震える脚が不安定ながらも、

立ち上がる事は何とか出来るみたいだ。

やった!
きっと病室で窓の外を覗こうと、隠れて訓練していたお陰だ。



これら僕がこなすメニューだけ伝えて、
他の患者のリハビリをしていたN先生は、

それらが終わると頃になると遠くから僕に声を掛ける。



「須山さーん。終わりましたか?
 じゃあ、道具持って行きますねー!」


先生はベッドに腰掛けた僕の右足部分の床に、
小さなプラスチック製の輪を一つ置き、

その中にメロンサイズのゴムボールを入れた。



「このボールに右足を乗せて、
円を描くようにゆっくり転がしてみてください」


こんなボールの扱いなら中学のサッカー部で汗だくやった。

簡単に出来ると高を括るが、右足が朽ちている事を忘れていた。

ボールは綺麗で滑らかな円を描けずに、
歪で凸凹な多角形の跡を残して行く。

細かな微調整など全く出来ない。
頭では2センチ右に動かそうとしても、
右足は20センチ右に、上に、下にとずれるのだ。



終わると車イスで奥にある銀色の平行棒まで移動する。

そこで、まずN先生は僕の血圧を測り体調に問題が無い事を確認すると、
装具を僕の右足にはめる。



「はい。それでは須山さん、
立ち上がって平行棒に掴まりながら周りを1周してみて下さい」


僕は立ち上がってゆっくりと平行棒に掴まる。


10階での歩行訓練時はナースステーションの前で、
廊下の手摺に掴まりながら、
N先生に点滴やら尿パックを抱えさせて、
物々しい姿でぎこちなく生まれたての子鹿のようにフラフラを歩いていた。

その時に比べると、幾分か人間の歩く姿に近いような気がする。


僕は左手で棒に掴まりながら、
ゆっくりと平行棒の周りをうつむき加減で気を集中させて歩いていた。


すると、近くのエアロバイクを汗をかきながら漕いでいた
50歳位の割腹の良い男性が僕に声を掛ける。


「若けえのに大変だな!頑張れよ!!ハハハハハ!」


そのエアロバイクの男性は、
自分の病気など吹き飛ばしそうな高らかな笑い声をあげた。

きっと一流企業のお偉いさんで、
上司なら人気がありそうな、いつまでも悪ガキなイメージの男性。



ここのリハビリ室には色々な病気を抱えた患者が来ている。


僕と同じような病の患者。

話す事が不自由で、50音の書かれたボードの文字を指差し意思を伝える同い年位の男性。

彼の病室は僕の隣でいつも母親が面会に来ており、病室からは終始メロンの香りがしていた。

身体をもたれ掛ける大きな歩行器でゆっくりと歩き、
通りかかる皆と大きな声で井戸端会議を始める小太りなおばちゃん。

腰にサポーターを巻いている40歳位のお洒落な小柄な女性。

交通事故で頭に包帯をぐるぐる巻きにしている若者。

彼は僕に何か話し掛けようと身体をくねらせるが話せないようだ。

右腕が無い隻腕の背の低い男性。左手で鉄アレーを必死に持ち上げている。

僕みたいな尿パックを先生に抱えさせながら、平行棒で歩行訓練する高齢者たち…。



そうか。
皆、己の病気と向き合いながら、
それぞれの思いを抱えて闘っているんだ。

僕だけじゃない、同胞達がそこにはたくさんいた。

僕もやらねば。

必死に這い上がろうと、いつまでも平行棒の周りを歩いていた。




●

N先生のPTが終わると、OT室に移る。


「須山さん。今日から2階ですね!やったじゃん!」


いつもY先生は友達のように僕に接する。

「じゃあ、自分の好きな言葉を書いて下さい」

紙と鉛筆を渡され、僕は左手で朝の日課の成果を披露する。


「うそ~!左手なのに巧いですね~」

この時書いた言葉は
「縁の下の力持ち」。


「何でこの言葉なんですか?」とY先生。

これは僕が昔から好きだった言葉だ。


「はは…何となく…かな」


あとは自分の名前や住所を書かされた。


それが終わると、いつも部屋で行っていた手の体操をする。


先生に介助されながら(というか殆ど先生の力で)、
垂直に曲げた右肘を真っ直ぐに伸ばす。これを20回。

右腕を万歳するように高く下から上げる。これも20回。

手首を曲げたり、伸ばしたりする訓練。これは相変わらず全く出来なかった。



これらの体操が終わると「タオル拭き」をやる。

何故この動作が訓練なのかこの時は分からなかったが、

指示されるまま、深い事は考えずにメニューをこなしていた。

机に置いたタオルに右手を乗せ、大きな円を描くように机を拭いていく。

しかし右肩よりも内側は拭けるのだが、
外側の方に行くにつれ筋力は弱まり、ある地点からは反応すらしない。

だから大きな円を描くはずが、それは肩より内側半分の円の欠片となる。


机を拭くだけなのに…こんな事すら出来なくなっているのか。

己の姿に憤慨し自己嫌悪に陥りそうだったが、
その黒い波に飲み込まれないよう、自分を支えるのが精一杯だった。




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午後は昼食後にU先生のSTが始まる。


この頃の僕の「喋り」の状態は、

発声時に使う喉の筋肉が脆弱なせいで、
かすれたような声を必死に絞り出すように話していた。


普段話す何気ない落ち着いた会話も「一生懸命に」話さなくてはならない。


しかし、頑張って話そうとすればする程、
弱くなった喉の筋肉を使う為、

運動後のように息が上がってしまう。

声のトーンを上げ少し大きな声を出そうものなら、
ジョギング後のようにぜいぜいと肩で息をしてしまう。



発声するのも労力を使うのに、
それに加えて「ろれつ」が回らない。

今でもそうだが「ラ行」が特に上手く言えない。

舌を巻いて発声しなくてはならない「ラ行」は、

舌の筋肉が機能しないとスムーズに丸まらず非常に発声しにくいのだ。



「のらいぬ」が「のないぬ」、

「つらら」が「つなな」になったりする。



話す方がこんな状態では、
聞き取る方も頑張って聞き取らなくてはならない。

この時期のコミュニケーションは大変苦労したように思える。




人間は言葉の動物だ。


頭に浮かんだ理論を整理し、
それを紡ぐように「声」として他者に伝えていったり、

文字にして「書いて」文章に綴る。



声にして「話す」。
文字にして「書く」。

人間としての当たり前のコミュニケーション。



僕は、話しづらく書きにくいなど、伝達手段の出口を塞がれた。

すると不思議なもので、入口である発想や理論なども暗く閉ざされる。

頭に浮かぶ考えが子供のように酷く陳腐なものになってしまう。
頭の回転が鈍るのだ。


今でもそうなのだが、頭の中に霞みがかったようなカーテンがあり、

それが頭の中の歯車に巻き付いて邪魔するような感覚がある。


やはり、人間は言葉の動物だ。



さて、ST室。


そこは三畳程の狭い部屋で、
奥にU先生が座る一人用のデスクがあり、

その上にパソコンと言語療法に関する学術本や書類などがぎっしりとあった。


背中を向けパソコンで患者の詳細情報などを確認していた先生は、

僕が車イスで部屋に入ると、振り返ってニコリと笑う。


「どうですか調子は?さあ、始めますか!」


する事は、病室でやった事とさほど変わりが無い。

変わった事といえば、病室でのフランクな先生が、
医学学術本や病院の書類などに囲まれていると、

気のせいか一段と頼もしく見えた事ぐらいだ。



先生の取り出した小さなノートには、
言葉に関する沢山の問題が詰まっていた。
それを先生と一緒に考えていく。

きっと病気後の僕の記憶や知識など、
知能活動の欠陥などを調べているのだろう。



「次の言葉の意味を答えなさい。」


ノートに書かれた「DNA」という文字を先生は指差す。


「DNAね…。
正式な名称がデオキシリボ核酸だったかな。
人間の遺伝子情報が詰まった、二重螺旋構造の細胞内の物質だったような…」

「へえ~。デオキシリボ核酸っていうんですか」

そう言いながら先生は、ノートの次のページに書いてある解答を確認する。

「おみごとです。そんな難しい名前、私も知らなかった」
「中学生の時に習っただから、僕もうる覚えですよ…」



「次に婉曲」

「婉曲…。
 こんな言葉の日常で使わないよ。
う~ん…分かりません。」

「あんまり使わないですよね。
私も知りませんし。」

「えー!先生も知らないんじゃん!」

先生は照れくさそうに解答を確認する。

「婉曲。表現などを遠回しにするさま。」だって。

「へえ~。やっぱりあまり使わないね。」


その他に図形の問題。
4つの図形が並んでいて、3つはある共通点があるが、1つには無い。

その仲間外れの図形を探す問題。


例えば、正方形の右上が欠けたものが3つと左下が欠けたものが1つ。
同じ形だが1つだけ45度に傾いたもの。

難しいものでは、円と直線と曲線が複雑に交差していて、4つともその様子がバラバラなもの。

「これ難しいね。4つのうち3つに何の共通点も無さそうだよ。」

「そうですね…。これは難しいですね。」

この問題の難度は相当高いらしく、
先生も上司に解答の複雑な意味を聞いて、
翌日にそれを僕に伝えた程だ。

一連の知能テストが終わると、ちょうど終了時間がやってくる。



こんな感じで2階での毎日のリハビリは始まった。

一般病棟にて…その6

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一般病棟に移ったその日の午後、
2週間ぶりに担当看護師が洗髪をしてくれた。



看護師は車椅子で僕を洗浄ルームへ連れて行く。

そこは寝ながらでも入れる浴槽があったり、
洗車マシーンのような大きめの、人を洗浄するための機械があった。

隅には洗面台があり、僕の頭はそこで洗われるようだ。

少しカビ臭いエプロンを掛けてもらうと、
シャワーで一気に頭に湯が掛け流される。



ICUでは妹が水を使わないドライシャンプーで頭を洗ってくれたが、

それはかゆみを押さえる一時的なもので爽快感は無かった。


頭から水を浴びれるってこんなに心地良いのか。

看護師は僕の頭をジャガイモのようにゴシゴシと洗う。


そこそこ。そこが痒いんだよ。


いつも通っていた美容院の何倍もの清涼感。



でも、やっぱり…
自分の両手で自由に洗いたかった。

今なら「左手」だけでもいい。

僕の好きな時間に好きな所を好きなだけ洗いたい。

それが「普通」の事なのだけど、
この時はそれが遥か遠くに感じた。



その翌日の8月29日。

「尿の管・点滴・指先の酸素計測器」の邪魔物3点セットが外された。


トイレでスッキリと放物線を描いた後に僕が望んでいたのは、

「一人でシャワーを浴びる事」だった。
それは早ければ早いほど嬉しい。



そして、8月30日ーーー。

僕は看護師さんをナースコールで何度も呼び、
新しいおもちゃを欲しがる子供のようにダダを捏ねた。



1回目。

「シャワー浴びていい?」

「まだ一人じゃ危ないから駄目ですよ」

「…そうだよね」



2回目。

「ねえ…ちょっとだけシャワー浴びていい?」

「…転んだらどうするんですか!」



3回目。

「…どうしてもシャワーを浴びなくちゃならないいんだよ」

「床に溜まった水で転倒したら骨折するんですよ」

「…転ばないように気を付けるからさ」

「…どうしても浴びたいんですか?」

「うん。どうしても浴びたい」


「……じゃあ。浴室に備え付けの椅子があるので、それに絶対に座りながら浴びて下さいね。立っちゃ駄目ですよ」

「うんうん!!」

「そんなに言うなら浴びてもいいですよ。先生には私から言っておきます。ただ確認のため、服を脱ぐ所だけ見せて下さい。」

「いいよいいよ!!」



若い女性看護師にパジャマを脱ぐ所を喜んで見せる
中年オヤジのような変態的な会話になったが、

今の僕は脱衣する所なんか見られても全く構わない。

それ以上に一人でシャワーを浴びたかった。



片手で服を脱ぐのはコツがいる。

先に、動かない右手側を左手で脱がしていくのがポイントだ。

左手側を先に脱ごうとすると四苦八苦する。

余りマゴツイている姿を看護師に見られると、
折角下りた許可が取り消されそうなので余計に緊張する。


どうにか脱ぎ終えると、

「じゃあ、シャワー浴びてもいいですよ。
滑らないように気をつけて下さいね」



ついに「自由な入浴」も獲得した。


僕は念願の熱々のシャワーを頭から全身に力一杯浴びた。



気持ち良い!!



ICUのベッドで描いていた目標が、こんなにも早く実現されるなんて。

油脂たっぷりの頭。
テカテカの顔。
垢塗れの全身。
首元の傷。右足付根の傷。

汗疹だらけの首の後ろ部分。
全てをエグリ取るように念入りに洗った。



ダラリとぶら下がった右腕・右足を眼にすると、

初めてその全貌を窺ったような苦い思いだった。


お前らか。動かないのは。



少しでも刺激になればいい。
その眠った機能を叩き起こすように、

祈りにも似た湯を勢いよく浴びせる。

右の指先からつま先まで。
動け。動くんだぞ。



盛大に終わったビッグイベント。

乾いたタオルで頭を拭く。顔を埋める。
全身の水滴を吸収させる。

が、拭けない箇所二つがある。

「左腕と背中」だ。

全身を拭いてくれる左手なのに、
右手が使えないので拭いてくれる役がいない。

両手で引っ張ってタオルを使えないので背中も濡れたまま。

右手でタオルを掴む事も出来ないし、
腕を背中に回すことなんて問題外だ。


だから、
机にタオルを敷いて左手を労るように転がし、
ベッドに大きなタオルを広げてそこに寝転がり、

ひっくり返った亀のように身体をバタつかせ、
ゴキブリダンスで儀式をいつも終えて終えていた。


一般病棟にて…その5

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2007年8月29日(水)ー午後。



ICUで看護師に「お腹がだいぶ張ってますが平気ですか?」と言われたのが2日前。

お腹に便が溢れんばかりに溜まっているはずだ。

看護師が監視するICUのベッド上で吐き出すのがどうしても嫌だった便意を

ここでは周りの目を気にせずに処理出来るのが幸せだった。

入院して以来初めての便に少し不安はあったが。


キャスター付の点滴の鉄柱と、
尿を溜めるパックを抱えて車椅子でトイレに向かう。

トイレに行くだけなのに大荷物だ。


左手だけで点滴とパックをトイレに押込んで、
車椅子から便座へと手をついて重い腰をゆらゆらと移乗させる。

この段階に至るだけで汗が滴る。



ズボンを下ろすと、自分がどんな処置をされているのか
確認するのが怖かった己の姿を直視する。


陰部からは小指位の太さの管が出ており、
それが抜けないように腰部分でテープでしっかり止められている。

尿はこの管を通って自然にパックへと流れていく。

膀胱に溜められた尿は次々に管から出て行くので壁を圧迫せず、
そのため尿意は全く無い。

お尻には特に処置が無いようなので便は出来そうだ。



右太腿の付根部分に小豆大の小さな赤いふくらみがある。

その周りに2、3つの擦り傷のようなものもあった。


なんだこれは?


そういえば倒れたあの日、
僕は手術室で右足の付根に何か処置をされていた。

モウロウとした状態だったので確信出来ないが、
思い当たるのはそれだけだ。

デベソのようにぷくっと膨らんだ傷口が不思議だった。



便座でいきむ。
が、腹筋に力が入らずうまくいきめない。

お腹の筋力も失ったか…
長い長い時間がかかった。



出た!

快感だった。最高に気持ちが良かった!


自然な事だが、あるべき人間の姿が自分にも映し出されたようで幸福だった。

尿をするだけであんなにあがき、
結果失敗に終わったICUの僕とは明らかに違う。


口から物を食べ、それが自分から自然の形で排泄される。


ああ、なんて幸せだったんだ。

新たな価値観を植え付けられるようだった。


僕は多くは望まない。
普通でいたいだけだ。どこまでも普通の人間で。



翌日の8月30日。

便が排泄された事で、大腸や膀胱を収縮させる腹筋が回復したと
ドクター側でお墨付きが出たのだろうか。

ついにあの忌まわしき尿の管が外されるみたいだ。

ICUで僕を地獄へと導き、
廊下で歩行訓練する時も中村先生に管から伸びた尿のパックを抱えさせ、

どこまでも屈辱を与えた続けた憎き奴。


担当看護師によって、それはベッド上で外された。


「はい。ちょっとイヤな感じしまーす」

今まで掻いた事の無い所を思い切り掻かれるような妙な触感で、
管がスルスルと抜けていく。

身体の一部がえぐり取られるようだった。



点滴も無くなった。

それはどこに行くにも僕に付きまとい行動を阻害し、

昼寝をしていると、突然「ピー!!」と
轟音で液が無くなった事を知らせ、僕の眠りを妨げる邪魔者だった。



次の日には、右手の指先にテープで括り着けられていた「体内酸素計測器」も外された。

指先の計測器からは沢山のコードが伸びており、

その先の煙草箱2個分くらいの計測器本体がパジャマの胸ポケットに入れられている。

就寝中に寝返りを右にうつと、マヒした右腕が下敷きになっている事に気付かず、

夜中にシビレて叩き起こされる事はよくあった。

寝る前に胸ポケットから計測器を取り出すのを忘れ、
寝返りをうった時に胸に突き刺さる事もそれと同じ位よくあった。



下腹部の尿の管。

左腕の点滴。

右手指先の計測器。



僕の行動を押さえつけていた邪魔者3点セットが、これで全て除去された。


これで自由だ。雲一つ無い開放感が晴れ渡った。



尿の管が外された僕は、喜び勇んで車イスでトイレに入り
「尿」が出たら尿瓶に入れておくように看護師から言われていたので、

尿瓶へと思いきりイキんで時間をかけ尿を放出する。

管によって尿道が傷ついていたのか、尿は赤みを帯びていたが、
それでも尿瓶一杯の大量の尿が出た。



出た。やっと出た…。


ICUでのあの苦しみを思い出すと涙が出そうだ。


尿意便意が無く、生きているのか死んでいるのか分からないようなあの苦痛。

トイレに行きたくても行けない、やり場の無い憤怒。

出したくても出せない、自己嫌悪に陥る屈辱感。

自尊心の傷跡は深く切り刻まれていたのだ。



他にも超えねばならない山は、
霞んで見えず遥か彼方に山脈のように連なっているが、

取り敢えず「自由な排泄」という山の崖からは這い上がる事が出来た。



ナースコールを押すと担当看護師が僕のトイレに駆け込み、
尿が沢山入った尿瓶を取り出した。


「こんなに出た!良かったね!」


面会に来ていた家族と僕にそれを嬉しそうに見せる。

自分の尿なので恥ずかしさもあり僕は素知らぬ顔でいたが、

本当は優勝カップのようにその尿瓶を高々と掲げたいくらいの気持ちだった。


やった。やったよ!
ICUでの苦しみと、それを乗り越えた誇らしさとこぼれ落ちそうな嬉しさ、

そしてちょっぴり恥ずかしさが混じったピンク色の尿瓶だった。