第二百十一段 辰野の松尾峡の蛍
むかし、男ありけり。今も男ありけり。
その男、平成二十八年六月
信州の辰野の里の松尾峡「ほたる童謡公園」へと
行きけり。初めて目にせし数千匹の蛍の乱舞に
眼を奪はれけり。
その中の一匹 いと近づき来れば、歌を
わが面に 触るるばかりに 近付くは
母の魂かも 蛍一匹
と詠み、和泉式部の名歌「物思へば沢の蛍も
わが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」
を思ひ出しけり。
しかして、その男 母の霊魂に触れ得しと
思ひなして、立ち止まり 魂と魂との交歓に
夜の更け行くを忘れけり。