第八十九段 姨捨の里の蕎麦
昔、男ありけり。今も男あり。
その男、平成二十八年の冬
信濃の国の姨捨の里へと行きけり。姨捨の里は
古今集の「わが心 なぐさめかねつ 更埴や
姨捨山に 照る月を見て」(詠み人知らず)の歌枕の
地なり。生憎、月を愛でるの頃にあらねど
ある蕎麦店に入り
歌を
姨捨の 婆が打つ蕎麦 うまかりき
この地の言ひ伝へ 思ひつつたぐ
と詠み かって松尾芭蕉翁がこの地にて
詠みしと伝はる俳句「俤や 姨ひとり泣く
月の友」を思ひ浮かべ、姨がひとり
切り盛りの店を 世が世なれば姨捨山への年齢と思ひつつ
年季のなせる蕎麦打ちの技を褒め店を出でにけり。