とち狂うかとち狂わないか、それが問題だ | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

札幌のバラバラ事件の話とか何回見ても目を反らしたくなるが、

ああいう風にとち狂うかどうかは神の与り知るようなものなので、

「もし私に何かあったら真っ先に止めてほしい」とか書き残しや日記帳を残して然るべき場所に置いておくべきものだと思う。

しかし、最初からクライマックス、生まれてナチュラルボーンで狂うようなことがあれば自分を省みる時間も余裕も与えられないのだ、

本当に人生は恐ろしいものなのだと思いました。


もう生活無能力者なのは解っているから、ことあるごとに掘り返さないでくれ、と。

社会復帰もしなくてはならないが、一体何をどうすればできるのか。

無能力なんて強い言葉を、とはいうがそれでほぼ全ての問題が行き詰まり精神科へ駆け込んだような人間をどうしろというのか。

外に行けば何かとコミュニティの中で機能不全を起こして、話が噛み合わない。よく訳の分からないことを言うしやる、と何度言われたか知らない。

外に出て徹底的にベコベコにされたなら、積極的に外に出て何かをしようとは思わない。消極的に出されることがあればずっと黙っている。

あれこれ人を巻き込んでえらい目に遭ったから、もう人を巻き込みたくないし、障害だと最初から判った上で、

身分を明らかにした上で人と関わりたいが、先入観というか身分というか「障害」の何もかもがスティグマの塊のようなものなので、

何もしないでそのまま外に出れば昔と同じ事を、いやもっと酷いことを押っ始めるかもしれない。

何なら会う人全てが福祉関係のスタッフ、医者、ホームヘルパー、カウンセラー、だけになっても正直自業自得だと思うから、

自分のコレクションに手を出されなければ人間関係は減っても許容範囲である。むしろ一人きりになってしまった方が落ち着く。

人の視線、人の言葉、人の気配、そのどれもが長引けば自分から落ち着きを失わせる。

自分の音と環境音、これだけで自分は平和であるし、一つ屋根の下に誰かと住むということで徐々に何かが削られていく。

寮とか共同生活とかシェアハウスをしていたなら、問題を起こして、今頃こんな文章を書ける場所にいないかもしれない。

間違っても自発的に他人の家には行かないし、必要最低限の買い物と通院、あとは身だしなみを整える床屋や服が適宜買えるならいい。

引きこもりというか、自分がいれば全てが完結するような感じにしたかったが、肝心の自分が無能力であるから何もできないで他人に巻き込まれる。

一人暮らしして仕事をしていた時も交友関係なんてなかったし、広げる選択肢もないし、

家で朝から晩まで文章を書いたりゲームや楽器の演奏に明け暮れただけで時間が足りなかった。

一人で完結する、と言えば聞こえはいいが、ぶっちゃけ人との関係がないことに疑問さえ抱かないということである。

何かのサークルに飛び込んだり、仕事仲間と一緒に何かをすることはほぼ全く念頭にないままで過ごしてきたとしか言いようがない。

これで無能力以外のどの表現に当てはまるだろうか。福祉関係の対象になっても仕方のないことではないか。

そしてそういう自分を省みてコンプレックスを全身に行き渡らせて、更に窮屈になったら、もう狂うしかないのである。

種田山頭火や尾崎放哉みたいに出家出来るならいいと何回思ったか。しがらみから自由になりたいと時間さえあれば考える。

しかし自由になれる能力がなかったから誰かの庇護の元にいる。これが国の制度だけに縛られるなら誰の顔も見えないからまだいいと思う。

見える人に縛られる限り、私はとち狂うかの境目に追いやられる。自由とは何であるか。

自分のことを考え、自分に徹し、自分という事柄の穴を掘り続けるのが私の仕事である。それこそが私自身の誇りである。

それ以外のことは埃か何かの扱いに出来ればよかったのに。


限界まで突き進むととても安全だとは言えないので何処かに相談するしかないが、そこでもちゃんと言いたいことは伝えられるのだろうか。

誠に遺憾である。