私は人と動線が被ることがこの上なく辛い。苦く暗澹たる気分になる。
自分のプライベートとは親を含め誰であろうが立ち入られたくない。仕事場以外で一人で何かしている所を見られたくない。
自宅で親と暮らしていても生活の軸をずらしたりして極力やっていることがぶつからない、見えないようにして何とかしている。
なのでさらに人が増えかねない障害者用の宿舎やグループホームなど衆人環視の中で暮らしたら精神的には本当に死にかねない。
プライベートとはプライベート以外の意味をもたない。一人たりとて加えられないことを望む。
わざわざ人には見つからない時間にいろいろな自分の仕事を組み込んでいるのに、無思慮に後ろなんて通られたら憤怒でも涌きかねない。
ちょっと条件が揃いさえすれば堪忍袋の緒が切れるか癇癪玉が爆発あるいは暴発するだろう。
別に悪いことはしていないが自分が自分であることは人前では極力隠蔽しておきたい。秘密を探られたなら吉良吉影みたいになりかねない。
プライベートとはそのように護られるべきものである。聖域は私のみの場所という意味でのみ聖域でありうる。
当然公平に誰かのプライベートには立ち入らない。興味関心がなければやる気が起きないから、特に誰でも個人のことを聞くこともない。
誰かの部屋なんて緊急事態、暴れていたり急病とか異臭でも放っていなければ極力近寄らない。
食事でも一人でないと救われた気がしない。『孤独のグルメ』のように、一人で目の前に用意した、用意された食事を意のままに片付けたい。
それが妨げられれば部屋にこもって食事をしなければならなくなる。これでは完全にひきこもりだが、動線が被るから仕方がない。
当然食事を作る所までちゃんと人には見られたくないのである。
どれもこれも一人で、視線も動線も感じられない、隔絶された時間と空間、
これこそが自分の精神を救うものであるが、誰かと暮らしている以上台所は一つしか無いし、食卓も一つしかない。
そこがトイレや風呂など生活インフラにつながる通路であればそこを通る以外に道がないので、夜食を用意している時に人が通れば、
それはもうバッチリ見られるわけである。何か自分悪いことでもしましたか、と遺憾に思う日々が募っていく。
本来なら生活空間には自分一人しか置きたくない。他人をおいたらリズムが狂う。人のことを考えたスタイルを組まなければならなくなる。
誰にも縛られたくないと逃げこんだこの夜に親が入ってきたら全部台無しである。夜食を食べているちゃぶ台ごとひっくり返したくもなる。
何が悲しくて食事を自室まで運ばねばならないのです。それなら自室に調理設備がなければ自分のリズムは守れない。
そんなこんなで自分は他人と暮らすことにとことん向いていない。協力は極力しない。どうしてもしなければならないことだけはちゃんとやる。
本来なら一人暮らしをしたいところだが、そんな金もない。趣味のものはまず狭ければ入らない。入りきらない。
なのでエアコンがない所に押し込まれるか、ワンルームで物を置いて寝床がなくなるかのどちらかになる。それか生活保護で何もなくなるか。
空気が読めない障害者は自宅にさえいれば空気を読まなくてよい場所に行きたい。それが個人の精神的安全と回復を図る方法であるから。
誠に遺憾である。