慢性的に憂鬱みたいな状況になると、人といることに重圧を感じるようになる。
人の集まりというのがストレッサー、というか憂鬱になる原因みたいなもので、
人に四六時中囲まれたり、何を話してくるかわからない状況になったり、抜け出したくても抜け出せなくなれば、無性に逃げたくなる。
逃げ出せないときにうっすらと死がよぎるようになる。ずっと人に囲まれたり、密接な人間関係を強いられれば死にたくなるだろう。
逆に言えば、人間関係から解放されていても死を自覚して憂鬱になるのは日常だが、それは生きている者なら誰しもが抱える悩みである。
しかし一人であれば周りに環境を変化させる要因や自分に対する働きかけがないので、沈む傾向にはあるが、深刻に、致命的に沈んだりはしない。
人というストレッサーに厳重に包囲されない限り、一人ではそう簡単に死ぬなんて思わない。
世の中コミュニティを維持することが大事だの孤独死を避けろだのよく言われる。
そういう人間関係の強要があって、人と会って自分の問題点が教養みたいに周知されれば、別に見せたくないものを見せ放題にしているのだから、
別に言えば常に弱みを握られているようなもので、負い目と弱味を誰しもが握ることになるので一人にならなければ安心できない。
人に囲まれたら希死念慮の一つや二つくらい簡単に生み出されるわけである。常に孤独だから、孤独に対して死にたくなるわけではない。
孤独を愛好する人間が外に引っ張り出されたり、親戚など血縁関係に巻き込まれたとき、ふと死を意識するのである。
何もしゃべらなくていいし、いてもいないような扱いならまだマシかもしれない。血縁関係の義務というか行事に巻き込まれるときつい。
冠婚葬祭などに参加することすら、時には外に引っ張り出される、と感じるのである。イベントとか極力ない方がいいし、ない方が平和である。
自分のみならず周囲にも。音信不通扱いにされたままでいいなら二つ返事で手続きをするだろう。
最低限の福祉関係の人脈さえあればいい。
福祉作業所に通えば緩やかな関係を保ったままでいられるので、人はいても人の波にさらされないで済むわけである。
それ以外の時間はプライベートを極めて、意図的にひきこもりのように必要がなければ外に出ない、イベントを無視しきって過ごしている。
当然人の家なんて訪問しないし、誰かと時間を共有することもなるべく少なくしておきたい。人間関係で過労死するなんてまっぴらである。
ある意味私にとって人間関係や人の感情に関わる何らかのイベントは仕事、労働扱いになる。休めるなら繋がらないで休んでいたい。
感情では繋がりたくないのは、文字通り感情に抹殺、忙殺されるからであり、制度や法律の義務で紐くらいの細さで関係を保てるならそれでいい。
関係を太く長くするには精神力が必要になるわけで、当然社交性や関係を太いまま維持する継続的な働きかけをしなければいけなくなる。
私にはそれが何よりも負担に感じるから、人間関係を維持することなど無理だ、と言えるなら言ってしまいたい。
社会性、コミュニケーションの能力に対する障害を抱えている状態、発達障害で、維持できない人間関係や役割を持たされても吐き出すだけである。
親戚などのぼんやりとした人間関係などは何なら全部誰か親戚にぶん投げても宜しい。
むしろ投げられるべきである。急に渡されてもちゃぶ台をひっくり返す程度に意図的に放棄するだろう。
できないものをやらせるなんてなんという不合理か。適格者ではないと自分で言っているのに何故担がせられてしまうのか。
神輿は軽い方がいいかもしれないが、いくら軽くても神輿の上から逃げる奴なんて担ごうなどとは思わないだろう。思われてしまいたい。
誠に遺憾である。