自己肯定感とは無条件で高められるものなのか | 隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

よく鬱傾向にある人に、心理療法とかカウンセリングを進めて自分の肯定感を高める(もちろん投薬は進めた上で)というのがあるが、

自己を肯定しようがない場合一体どうすればいいのか。

特に知的に障害があるわけでもないが、人付き合いがことごとくうまくいかず、悩んだ末に精神科の検査を受けたら発達障害でした、

あとは自力で何とかして下さいなんて言われたらどうしようもないものを一個人でどうにか出来るものか、とでも言いたい気分にはなる。

存在自体が自己肯定感を下げるように出来ている者に対して、どうにかして自己肯定感を高めてくださいと言われても、

悩んでいる原因が障害による自分の将来に対する不安、障害に起因するこれまでの自他共への精神的なダメージ、それが生涯に及ぼす影響、

これを加味した上でこれで自己を肯定しようとするなら何という開き直りであろうか。

自分は悪いのに悪いと言ってはなりません、何としてでも肯定して下さい、という欺瞞を感じる。

別に発達障害他目立った症状もなく、なんとなく人とそりが合わない、ずっと憂鬱な感情が収まらない、と言うのであれば、

カウンセリングやちゃんとした治療をした方が良いだろうと私は勝手に思う。

問題はどうやっても自己を肯定しようもない状態にある、障害とかあるいは病気とか、または借金など取り返しのつかないことになっている時、

それを肯定したらなんか嘘をさらに深くして自分を騙している、欺いているような気がしてならないということである。

自己を肯定しようとしたときに過去が問答無用に自分を殺しに来る。

お前あんだけ人に迷惑をかけておいて、そんなやつが何を肯定できるのか、と。

並べられた罪が私を赦せるのか。それならいっそのこと公開処刑でもしてくれ、と思う。

こんなのを肯定して済まされるのならパワハラ気味の人間も肯定されてしまうだろう。

自分の罪と向き合ったならそれが到底許されることではないと自覚できる。

それだけのことをやってしまってから許されようというのは、人の昆虫標本を破壊してから許してくれと哀願することに似ている。

許してくれという権利もないのに何が許されるのか。制度的には許されるかもしれないが心理的に決して許されたものではない。

人に負担を強いる関係が誰に対しても続けば人間関係など要らないと思うのが自然である。

緩やかに、というのは人間関係を維持しないことも含めて緩やかに穏やかに静かに平穏に過ごすということである。

人と比べなければ自己肯定感を誰かにぶつけなくてもいいので、自己肯定感が維持できる。

人と会ってしまうと、自分が障害故に下であるという自覚が嫌でもよぎるから、自己肯定感なんてあっという間に押しつぶされる。

別に人の上に立とうなんて思わない。立てば強権的な管理に努めるようになるから、立っているべきではない。

弱々しい人間が上に立った途端に豹変して独裁的な色々なものを振り回すように。

そんな自己など褒められたものではない。人に向かって何を喚きちらすか知れたものではないからである。

誠に遺憾である。