自閉症とは個性で済まされるのだろうか | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私は写真にも写りたくない程度には隠れたい(なお人間以外の写真撮影は趣味です)し、

自閉症スペクトラムの程度によっては発語のない場合がある障害だからたとえ家族であったとしても、顔出し含めて無許可で公開していいのだろうか、

とは思うけれども、自閉症とか重ければ家庭や施設に隠される、あとは家族と福祉関係者くらいしかあずかり知らぬことになってしまうので、

周知をするなら誰か勇気ある者がプライバシーを犠牲にしてもう少し前面に出て来て広げなければならないだろう。

私のように知的には全く障害がないタイプの、俗に言うアスペルガー症候群とか、広汎性発達障害というのは、

発達障害、自閉症スペクトラムであっても人前に出ずに文書や画像など何かの媒体を使った上で自己を表現し誰かに伝えることが出来る。

ぶっちゃければ表に出たくない人はそのような手段をとるしかないし、表に出ない、素性や顔を公開したくない分地味なのは否めない。

なんなら文章だけ書いてお出しするので、お前は本当に自閉症スペクトラムなのか証拠を見せろ、手帳でも出せ、まであるかもしれない。

自閉症スペクトラムといっても本当に様々あって、昔の言葉であるところの自閉症、細かく言えば古典自閉症というのは、

知的障害を併発しているので、発語があっても健常者と比べて明らかに少なかったり、そもそも意味のある単語を使えない場合もある。

当然語彙も少なければ感情的な処理も完全ではないので、表に出て活動して認知を高めようとしても当然限界がある。

また、あるときまでちゃんと普通に話せていたのが突然急に落ち込んで話せなくなる場合(折れ線型という)もあるので、

簡単に一言で自閉症なんてとても言い切れない。本当に多彩でバラバラで著しい個人差が存在しているからである。

そういうのもあって、「自閉症」から「自閉症スペクトラム」に名称が変化して、中身も症状の軽重、知的障害の有無も含めて総合的に、包括的に、

固定した症状ではなく、もっと柔軟な診断を行い医療と療育に努めていこう、という話である。

しかし診断される側は幅広く診断されるのはいいけれども、あんまりにもぼんやりしすぎて外野の健常者としては個体差が大きすぎて、

一律に判断できない、困る、よく分からん、という事態になっているのは診断名が変化してもっとぼんやりしていると思うかもしれない。

相変わらず触れる福祉以外の外部の人間が少ないままだからである。

それで、当事者がある程度前に出て認知、啓蒙を図らなければならなくなる。

ニキリンコ氏などの当事者が前面に出て講演を行ったり、或いは福祉施設のスタッフ、精神医学の専門家が書籍を出版して紹介したりする。

しかし発達障害の全人口に対する割合の割には、人が「ある程度でも自閉症スペクトラムを本当に知っている」のか怪しい、という話になってしまう。

そこでYouTube等動画やSNSでももう少し表に出て活動していこう、という話になるのもわからないでもないが、

発語のない自閉症の自分の子供を公開する場合、撮られているということを認識出来ていない場合、果たして人権とはどうなっていくのか。

プライバシーやコンプライアンス、要は遵法意識って一体どうなるの、無許可、無断撮影といえば明らかに無断である場合の人権はどこに行くのか。

しかし撮らなければ他の難病や施設から出られないALSや筋ジストロフィーとか重度重複障害と同じように内部に隠され表に出てくることは少なくなる。

そもそも重い障害になればなるほど、物理的に外に出せなくなる、出したら最悪死ぬまで行きかねないので本当に表には出せない。

急に車椅子やストレッチャーで運ばれて障害者が公の場に現れても、一体何のことだか詳しく話を聞かなければ状況を把握できないように。

私など自分でもわからないまま大学をちゃんと卒業して、大人になって、社会でぶつかった結果自閉症スペクトラムだとようやく診断されたのである。

そういう場合意図しないで自分の症状を公開しているようなもので、何の対策もない(診断もされていないから当たり前である)まま公衆の面前に、

自覚のないまま症状を放置されてあれこれいじられて叩かれてようやく発見できるのである。

わざわざ動画に取らなくても勝手に公開して、公開されて、後で後悔するようなものである。

結果あまりにも自尊心にダメージが行く形になったので、メンタルにも影響して、外、人前に出て行く意欲がかなり削られました。

こういうのは知的障害の有無には関係ない「恥」である。少なくとも私はそう認識している。今風に言えば「黒歴史」である。それもどす黒いの。

子供だからと公開してもあとで嗅ぎつけられたり、成長した後で他の施設や団体から人権侵害だとか言われたり、

自閉症スペクトラムであろうと、自らの意志で許可できるところと、

目線やモザイクを入れたり声にフィルターをかけたり、決して面に出さないところを区別して判別して公開すべきなのは明らかである。

なんならトラウマやPTSDにでもなりかねない。自分や他人に傷を背負わせるものを個性という一言で済ませてもよいのだろうか。

しかしその犠牲がなければリアルが明らかになることもない。誰かがミゼットプロレスのように積極的に公開しないと決して見えないものはある。

尊い犠牲、と言えば完全に人任せ、責任をぶん投げっぱなしと言われても仕方がないが、

プライベートとかプライバシーなんて明らかにすれば一層まずいことになる、この可能性が捨てきれなければ地味でも隠れてやるしかない。

自閉症スペクトラムの人の個性と明言出来るものとは一体何があるのだろうか。障害とは果たして個性に入れることが出来るものなのだろうか。

とりあえず迷惑系YouTuberやあくどい人の餌食にならないことを切に祈るだけである。

人の心が育っていない者はそれ故に人に犠牲にさせられるのです。誠に遺憾である。