発達障害者とか自閉症スペクトラムとか実に人生つまらなさそう、と見えるかもしれませんが、
これはこれで色々趣味とかやっているから、致命的につまらない訳ではない。
急に外の世界から人間関係が入る、人間が勝手に挟まるからつまらなくなるのである。
基本的にチームワークが取れない人間性なので、一日の生活をなるべく一人で済ませられるように、
家族と暮らしていてもまるで一人で住んでいるように見えることが私の理想である。空想とも言う。
人と関わることが負担だと言う人の場所に行って何かをしても実際負担なので人生つまらなさそうに見えるでしょう。人が目の前にいるから。
作業所とか、福祉施設とか、そういう距離感が分かっている人の間であれば、過度に気を遣ったりコミュニケーションを取らなくてもいいので、
私としては家族といるよりは気楽になる。当然スタッフの方々には頭が上がりません。
アットホームな雰囲気がいい、とか世間では言うが家族というのが一番繋がりが深いので繋がりが深いゆえに時折不快になるときもあります。
「アットホーム」という言葉に疑わしさ、家庭だからこそ過程で起きる問題、澱んだ空気、人を情念で縛り付けるイメージがあるから、
もう感情的な軛から私を解放してくれ、勝手に一人で死んだりするから、などと言いたくなる気分になってしまうわけである。
家で家族といるからこそ思ってしまう時もある。私には家出する自由もないのか(実際ない)、と。
障害者である以上引っ越しとかして住所を変えたりしたら手続きは健常者以上に異常に増えます。
障害者手帳の住所の変更、政令指定都市から出入りする、都道府県が変わる場合は手帳自体の新しい申請、自立支援医療の病院の変更の手続き、
交通費などに関する福祉サービスの申請、バスやガソリンの減免など、煩雑な手続きを委譲しますから誰かやってください、などと言い出す。
障害者の辛いところは、自分がつらくても「つらい」と自力で公の場に繋がりにいかなければ援助を受ける検討すらされない、ということである。
家の人ができるのはあくまでも手続きの代理であって、どう苦しいかどう辛いかは医療機関なり福祉窓口等々に直接訴えなければいけない。
引きこもりの人が自力で役場に行って手続きをするとか、知ってる人でも知らない人でも、とにかく「人」に見られる恐怖心や不安などで行けないし、
部屋から出てこない以上、直接会話も出来ないから代理で何かをするわけにもいかない。結果、何の援助も受けられず親が負担に感じるのである。
うつ病とか重ければ寝床から這い出る勇気も出ないし、何とか動けるなら自力で動ける時に手続きを行うが、
うつ状態が激しく、気分が動かず苦しくて動けない場合は代理の人に頼むなりして病院に運ばれて診断を受けるしかない。
或いは知的障害があればそもそも福祉サービスがあるという発想に至らないことがある。当然サービスを受ける手続きをする代理人が必要になる。
統合失調症や人格障害の他害性の場合、自分に問題があるという認識に至らず、よって病識もあるはずがないので、
自分は正常だと思いこんで様々なサービスに繋がることを拒否し、何ならそういうサービスに迫害されているとか考える。
社会生活をして「何だこの自分の体たらく、これは精神的な何かがありそうだから精神科に行くしかないだろう」と思えるだけいいかもしれない。
そういう病識というか、何かが違うという違和感を心身でわかる、比べてみなくても何かが変だ、という事がなければ手続きをしようとも思わない。
自分に病識がなければ、病院にも役場にも福祉施設にも行きはしない、どんな福祉的サービスに繋がることもないだろう。
そして拗らせるところまで拗らせてしまえば、誰かが救急車か警察を呼んで然るべき処置を受けて最悪精神病院に閉じ込められる。
自分はもういかなければダメだ、これ以上自力で解決しようとすれば益々酷くなる、と思ったからあらゆる福祉サービスを検討しましたが。
それで負担を減らして、一人でギリギリ生きられるようにすれば不安はゼロではないけれど、
すぐ危機的状況に見舞われても、金銭的、あるいはメンタルヘルス的に、いざという時相談できる場所があるから何とかやっていける。
趣味や余暇活動もアドバイスを受けながら出来ることをすればいい、自分のペースで、人間関係も過度に拡げないように、
そういう落ち着きを取り戻せるような福祉施設との繋がりがあるから、何とかやっていける。
あとは出来ることをとことん楽しめばいいのです。出来ないことは本当に出来ないのでなるべく他人を巻き込まないようにしたい。
プライベートで自分の視界に入る人間は極力減らしたいわけである。
人間が持つ空気があると私にはとても息苦しくてたまらない。空気が読めないから特にきつい。
空気は吸うものだろう(意味不明)誠に遺憾である。