正直親がいなくなったらどうすればいいんでしょうね | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

親がテレビか何かの障害者のドキュメンタリーを見ながら曰く「こんな障害をもってかわいそうに。親がいなくなったらどうするんだろう」

そういうの私の聞こえるところで言うのを止めてください。その言葉発達「障害」者の自分にグッサリ刺さりますから。

障害者と言われて毎回毎回気に病むくらいなら人生辞めるわとか思いたくなります。

自分だって親がいなくなったらどうするんだろうと思いますよ。主に生活資金的な面で。次に人間関係が壊滅的という意味で。

家で晴耕雨読しながら作業所に行って帰りになんかその日の気分で食べたいものを買って帰って家の中を満喫する、

そこに人が必要ないから人は要らないと言っているのに、孤独だの孤立だの孤独死だのとなんか心配させるようなことをよく世間は言います。

ぶっちゃけ自分自身、生活のやるところはやってやらないところは徹底的にやらないから、

数ヶ月間生活を見ていれば言われると思います。「この人親がいなくなったらどうするんだろう」と。

一人暮らしを二十年弱やっていてもこの言い様である。要は高い頻度でごみ屋敷寸前になってたり、そういうのを見つけるような友人もいない、と。

友人関係とか友達とかいれば生活が引き締まるぞ、とか昔は言われました。しかし人を迎えるたびに別に説教を喰らってないのにとても不安になったり、

何でこんな人に気を遣わないと生きていけないのだろうかと思い始めたりする。最終的に内臓も痛くなり胃が引き締まりました。

要は人がいて、存在していることが私には不安をもたらす、ということである。気が全く休まらない。

気楽というのは、気を配る必要のある人や物が可能な限り少なくなっていることである、何なら人は物理的に消滅していた方がいい。

いい人とか気が利く人でも要らない。なんか気を遣わせてしまっても返す手段がないからである。そして自分のふがいなさにいたたまれなくなる。

何かのマニュアルか手引き書でも読んで何とかなるならまだいいが、気を遣う、というのは理論ではなく感覚的なものである。

そして感情の感覚が障害と名前が付くくらい鈍い、遅い、何なら気がつかない、となれば気が利かないなんて簡単に言われると思う。

致命的に無愛想で、人との繋がり自体が不安になったり、意図しない行動に対応できなかったり、人と繋がられることがこの上なく迷惑だと思ったり、

人間の輪なんてスパムメール並みの代物だろう、とか思っている人間が人の輪に溶け込めるはずがありません。

何回か溶け込もうと思いましたがその度に違和感が生じたり、胃痛が悪化したり、

「次はどこから声が飛んでくる?誰に話しかけられる…?オレのそばに近寄るなああーッ」となったりしたので、

幅広い人間関係自体が私には不適当、不適切、自分の処理能力を超えているものである。当然維持できるなんて微塵も思っていない。

人間関係自体が憂鬱の元なので今では抗不安薬が生活に欠かせません。人と関わらなければ要らない薬だと思っているが、そうはならない。

人間関係の終わりがないのが終わりとか実に憂鬱でしかない。それこそ強制的に終わりにでもならないか、と訴えたくなる事柄である。

なのでマニアックな話題が八割くらい違わずに通じでもしなければ、誰にも話しかけないし話しかけられないし、

そうでない場合、挨拶と最低限の伝達事項さえ伝われば、それ以外に話すことは急に好みが合うようにならない限りほぼない。

それとも何ですか。猫の額みたいな畑の自慢でもしますか。月並み未満になっている自分の俳句の話でもしますか。

どういうわけか昔から自分はへそ曲がりであり、逆張りを日課にして、常に多数派に属しないことにこだわって生きてきた。

細かいことには実にこだわり、突然の計画変更は日常茶飯事、気分屋でその日のノリでやることを決める、そして人をブンブン振り回す。

二人以上で作業をすると大抵話が噛み合わなくなったり、指示を出すのが面倒なほど指示を出したり、他人がとにかく勝手に動くのが気に食わない。

その集大成、とはならないが要素要素が集合して、合体して、総和的に「自閉症スペクトラム」と呼ばれる状態になった。

生活に困らなければ診断はされないが、実際社会性と人間関係と人間性も実に壊滅的なので、

何処をどう見ても日常生活に支障を来しているのは間違いないから障害と診断される。

頑固でこだわりが強い、なんて今ではマイナスのフレーズになっている気がします。そこに場に踊らされない、もいつか付け加えられることでしょう。

だいたいどの人とも噛み合う気がそんなにしないので、人が少なくなれば人の個性がえぐく見えて連絡を取らないので勝手に孤立します。

かといって人が多ければ気が配れなくなり、集団生活が成立しないのでどっちみち孤立する。いかなる場合もノリと勢いで孤立する、とも言う。

残ったのは親子とか親戚とかという義務的な人間関係である。まあそれも突き詰めれば鎖とかかすがいで縛り付けられる人間関係だと思いますけど。

「子はかすがい」って言うじゃありませんか。親に義務的な人間関係を強いるならかえって有害であると私などは思う。

一人でいれば生活が落ち着くのに、世間はいい加減に一人にしてくれない。誠に遺憾である。