人と過ごすことによるぼんやりとした不安 | 隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私の性格なんてのは、大凡芸術家のテンプレートに従った(しかし才能だけはない)ものである。

本当にどうしようもない。

何を間違ったのかは知らないがとにかく間違ったのでここいらで世間からの脱出を考えなければいけない。

何か物騒な事を言うが単純に一人でじっとする場所がなくて心を静めることができないから、

不合理でも一人でさせてほしい、仕事とか買い物とか山ほどある趣味や余暇活動は可能な限り一人でできるのを集めたし一人でやるので、

と言い切ったら私の願望はだいたいおしまいである。要は人がいる空間が年々落ち着かなくなっているということなのである。

発達障害からさらに何かを悪化させたような、神経質なのが年々酷くなるというか、繊細さ極まりなき状態、であることはわかる。

それでも許される場所、自室に行けばまだ何とかなるが居間や人の通る通路が一番落ち着かない。

たとえ家族であれ、家族である前に人間の集合体であるわけで、それにプライベートを縛られたくないのである。

旅行とかで家族で部屋を一つにまとめられるのは精神的な死刑宣告である。

面識のない人ばかりの場所に行くなら問題はない。誰も私を知らないからである。勝手にそこに行って、そして帰って来るだろう。

しかし、面識のある人と特に理由もなく(仕事など理由があるならいい、しかし宴会、集会は理由のない方に分類される)、

一つの場所に集められて決められた話題やするべき課題もなく自由に何か時間を過ごさなければならないのが私には本当にきつい。

誰が何を言っているのか気にしなければならないし、何なら相槌でも打っておかねばならない。それが一番辛い。

人間関係が近づけば近づくほど何かのきっかけで無くなればいいのにとか思う頻度が上がっていく。仲のいいというか気心が知れる人が怖い。

人と人の間に立ってバランス感覚を維持しなければならないのはバランス感覚が欠けている人間にさせるべき事なのであろうか。

一人が気楽というのはそういう気を遣う関係がない、しなくていいということに他ならない。私には人に背中を預ける資格はない。

本当に限られた人なら人間関係を維持するかもしれないが、別にそれは家族とか友人でなく、福祉関係の相談役の方がいろいろ気楽である。

仕事でやっていることからはみ出すようなことはしないから、人のプライバシーになんて決して踏み込まないだろうから。

それを勝手になんの資格もない一個人に踏み込まれたり、気持ちも知らないで勝手なアドバイスをされることが、私にはとても耐えられない。

お前福祉の何を勉強したのか、とか言いたくなるが、当然そういう人と関係を維持する気力も意欲もないので、本当に何もないという自由が欲しい。

私は明文化された制度とか法律に縛られるのは一向に構わないが、そういう文章もない感情を交えて接しなければいけない人間的なものがきつい。

誠に遺憾である。