発達障害がなければもう少し不幸ではなくなるだろう。しかしそれが幸せなのかはわからない。
上に行けば行くほどより上の壁が壁として立ち塞がり、実力差がハッキリ理解できるようになる。
つまり自分の才能が天賦の才能ではなかった、と完璧に思い知らされる事になる。
安定して下にいれば世間に飛び出したりしない限り人に弾き返されることはない。制度的な福祉の壁、下の壁が存在するからである。
この上の壁と下の壁のない、真ん中のごく普通の人々には突出したものがないと自覚しなければならないし、
かといって負けましたと簡単に言えないので福祉の恩恵にあずかることも出来ない。
下の壁がないと障害者には辛いが、逆に言えば壁がある内はある程度守られる。壁があるのに使うなというのは単なる強がりである。
人は壁に守られている、あるいは自分が壁を自由にぶち壊せる限り主体的に幸せ、といえる。
しかし、幸せとはいつでもそうでなければ不幸なのか。三食あって、適度に趣味をやって、適当に外を歩いても安全なのを幸せでないと言えるのか。
外に出れば敵がいたり、手当たり次第に金品や時に命を奪い取る強盗がうろついているのは不幸ではないのか。
障害者になって金がなくても壁の中でそれなりに暮らせるというのは間違いなく幸せである。
足るを知らなければどうあがいても不幸である。金があってもさらに欲しないと餓えているように感じるならば間違いない不幸である。
トッププレイヤーの通訳なんて欲張りでもなければこの上なく安定しているのに、欲を張って自分で勝手にその身分を捨てようとする人がいるように。
海外旅行に行けるとか、高い車に乗るとか、宝石やプレミアのある物を集めようとしたり、欲というのは基本的に数限りのないものである。
食卓の箸だけ豪華にしても、全体的に釣り合いがとれないから、結果的に食器、食材、部屋、全部豪華にしないと落ち着かないように。
そして食卓だけ豪華にしても今度は生活全般を豪華にしようと思うだろう。同じく全体的に釣り合いがとれないから、である。
最後にはあれが欲しいが、この国にはないから、あの国に喧嘩を仕掛けて、もう分捕ってしまおうと思うようになる。
そして不相応な喧嘩をしてボコボコにされて、色々な物を失ってしまう。
だから「箸を豪華にすれば国が滅びる」と中国古典では語られているのである。
こういうときに質素倹約に努めなければならない、というのはどこかに限度があることを知る、ということである。
上を見ればきりがない。妥協するところは妥協しなければ、何処までも何時までも欲に従わなければならなくなり、即ち不幸である。
ちゃんと三食あって外を自由に歩けることの何が不幸なのか、人と自分を比べている内は満たされる、幸せにあることを自覚できないだろう。
一人になって、比べることをしないで、ようやく自分を見つめて、普通に生きられる喜びを噛みしめられるようでなければいけない。
まあ一番不幸なのは人間が死ぬべき存在であり、なおかつ死を自覚できることなのですが。誠に遺憾である。