モーニングページ代わりに俳句でも詠む | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私にとって朝の日課というのは俳句を詠むことである。特に理由もない。何かやるならやりたいことをする、と思っただけである。

俳句を詠むのと同時にこのブログのネタでも考えて一日のモチベーションにしたい。

ただ、栄光をつかむとかトップに上りつめるとか、何か勝手についてくる虚栄心や上昇意欲は蹴り飛ばして敢えて落とすようにしている。

ランキングとか比較を始めると面白かったものが何も面白くなくなることは、私には本当によくあることである。

ソシャゲとかやむを得ず走っているが、その程度に止めておかないと際限がなくなる。

ソシャゲとかランキング闘争の最たるものだと思いますが、定期的に歯止めをかけるようにしないと本当に止まれなくなるから怖い。

社会と完全に離れることも難しいので適度に離れておきたいが、そう簡単にも行かないのが現状である。人は嫌でもくっついてくる。

誰かが「一番の不幸というのは家で一人でいられないことである」とか言っていたが、

何もかもが流れてくるような社会なんて意図的に止めておかないと何もかもが流入する。

人間関係、社会のいざこざ、訳のわからない感情論、お金、玄関で「今幸せですか」と言われるようなこと、

もう何もかも嫌になっても勝手に付いてくるようなものばかりで足を洗ってしまいたい。

ノートをつけるというのは自分にしか向き合わないことである。自分の感情と言葉しか頼りにならないということである。

自分の言葉を持たないで誰を説得しようというのか。誰にわかってもらいたいと言うのか。

何かが世間の言葉の受け売りで全部なんとかなるならば、世界は何と主体性の無いこと、つまらないことばかりであろうか。

例えどんなに拙くても自分の言葉を持たなければ、何の根っこも張れないし、そんな空虚な概念で人になんて語りかけられない。

今やChatGPTが人の言葉を学習して、人によってはそれに頼りきり、なんかレポートとか全部AIにぶん投げて仕上げて罪悪感もない、

とか本当に人間は笑う資格すらもなくなるような本当に笑えない世の中にある。

笑うにもちゃんと理由があり、根拠があり、学んできたものがあるから笑えるのである。

自分のことを説明できずして、一体何を説明しようというのか。一体何を語りかけようというのか。

そしてそのうち余計なことを削り落として俳句に至ってしまったのである。

ちゃんとした文章はまた別にちゃんと書くが、朝はなるべく俳句に専念していたい。

目の前に見える物事に何も変化を感じられなければ、自ら感じ取る力を失っているかもしれないのである。

そんな『生命への畏敬』を失っているような状態で感受性なんて保てるだろうか。昨日よりも今日、間違いなく生命が変化を遂げている。

日常生活の様々な変化を感じられなければ生きている楽しさもあるまい。

実際に仕事がどん詰まりだったときなんて、食事に味もなければ、窓の外に色がついていても何か薄く感じられるものであった。

人の声は余計に心に突き刺さって軋みをあげるし、それに対して短絡的な反応をしてより一層周囲を呆れさせた。

だからちゃんと朝に文が書けるというのは心がちゃんと動いて周りが見えているということでもある。

追い詰められているときには考える余裕も感じる余裕もないし、その感性で書かれる文章は何かを失っている。

自分の心がわからなくなるような生き方をしていて自分の言葉が持てるはずもない。

私は何でも自分の言葉を持たない選択をする意思を危惧するものである。誠に遺憾である。