これから高齢化がますます進んでいくが、高齢化社会でなお一層孤独死が恐れられて家を借りられないという事になるだろう。
私のような障害者など尚更借りられなくなるだろう。名目上障害者差別は禁止されているが、
実際物件に一人で住ませるとなれば半端な事は言ってられない。ちょっと事故が起きれば問題にされるし、住めば簡単には追い出せないからである。
家賃滞納でも相当悪質な行為を積み重ねてようやく締め出せるのが現状である。そのくせ死んだら事故物件あつかいされて建物の価値が著しく落ちる。
現状法律は家を貸す側にとって著しく不利な状況である。死んだら困るが、人というのは死ぬものである。老化が進行すれば嫌でも死ぬ。
高齢化社会が進行しつつあるのに、高齢者に厳しい状況はしばらく続くだろう。
そんな簡単に戸建てを買えるなら苦労なんてしません、と一介の障害者は言う。
何なら親が建てた家に死ぬまでこもり、いい家なんて借りられないまま高齢化し、本人と共に老朽化した家の修繕すらままならず、
孤独死なり何なりで人間が全滅したから建物も取り壊し、とか本当にそうなりそうだから困る。
文字通りひきこもり兼立てこもりとか言わざるを得ない状況である。家を借りようにも借りられない収入なら何処にも行けない。
万が一家が急に災害などで倒壊した場合、引っ越すにも引っ越せないから強訴してでも公営住宅に入り込むしかない。
一応障害者だから、という建前で。けれど高齢者兼障害者の建前なんてあるのか、と言いたくなる。
今の健康な高齢者ですら、家賃が高いからもう少し安い所に引っ越そうとして不動産屋に却下されるような時代である。
今でも楽な方に動くことが出来ないというのなら、これから先高齢化と見逃された発達障害者の数だけでまあ酷いことになるだろう。
事実上動けない人ばかり固めて、もう何が出来るのかすら分からない。人に、家族にだけ負担を強いるにも限度というものがある。
知的に重いとか肢体不自由とか状態がひどければそういう宿舎とか施設に入れるが、
知的にグレーゾーンとか、別に身体に不具合もなく五体満足(?)で、うつとか軽度発達障害(軽度ではない)とか増える一方ではないか。
そういう人々の保護者が亡くなった場合、手続きとか完遂できるとは限らないから、賃貸契約を結べるか、からちゃんと調べなければならない。
少子高齢化になれば当然障害者を保護監視できる人の頭数も減っていく。
一人で放っておけばどこに行くかもわからないし何をするかもわからない。何ならリミッターが外れていたりもする。
ハンセン病のような強制隔離をすれば今の世は批判が集まるけれども、たとえ軽度の精神障害でも、
隔離まで行かないまでも、何かしら起きてから寝るまでを施設内で完全実行可能な障害者施設なりコロニーなりがないと、
これからの世の中皆揃って不幸になるだろう。最早人権が優先されて姥捨山なんて出来ない。したらそこから絞められる。
地震雷火事親父の親父がなくなれば最早一人で危機に晒されるしかない。親はいなくなるけれども自分が亡くならない限り災害はある。
衣食住とは言うけれど住所がなければ必要な福祉サービスも受けられない。
たとえ若くても、派遣社員のネットカフェ難民とかよく言われていたし、障害というのは収入から遠ざかる要因であるから、
もっと住宅を、権利を確保することが難しくなるだろう。権利を代行する人々が全員善人とは限らないからである。
もし信頼できる人なり組織なりが見つかれば、ちょっと権利を捨ててもいいから要塞みたいな、城のような建物に集まって安心はしたくなる。
仕切りのない部屋なんて障害者のみならず誰にとっても地獄である。
何なら病人になって病院のカーテンしか仕切りのない部屋に追い込まれれば、壁のない集団生活なんて個人意志の犠牲の上にあることがわかるだろう。
そうなれる部屋を借りることも選ぶことも出来ないならば、本物の不幸がそこにある。
ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」がそこには明確に現れている。
障害というのは知性を除外して、自然の、本能の状態に近づく、近づいている、ということである。
知性、理性、身体感覚、それらが本能のままに現れやすい。
そういう人々が守られなければ、普通の人はもっと守られなくなるだろう。かと言って排除するわけにもいかない。
しかし実際に既に高齢者から、住みたい家に住む権利が閉ざされている。健常者ですら移動が出来なければ障害者なんてどう移動すればいいだろう。
そもそも屋根も壁もない人間が自分も他人もどうやって守る事が出来るだろうか。
安心はまず物理的な壁と、壁と同じような法律によって守護される。そこを保証できないのなら障害者のみならず人間全体に何を保証できるだろう。
誠に遺憾である。