本屋が無くなるとか文化の継承がどうたら、とか言っているけれども、
買いたい本がすぐに買えない本屋とかある意味があるの、とは時々言いたくなる。
注文して取り寄せるならAmazonか電子書籍でも持ってれば何とかなる時代、
本がないとか本屋がないとか、ニーズに応えた本を用意してから言ってほしい。
スキャンダルとかを扱った週刊誌とか、ゴシップばかり扱った本とか、あとはなんか芸能の話しかしない本とか、
そんなのを集められても一体私は何をすればいいのだろうか。
俳句とか短歌とか教養的な事をしてくれ、と言いたいがあまりマニアックなのも売れないのはわかっているから、
人口の減少がそのまま読書の衰退なのである、先ほど言ったスキャンダルでも、
家にネットが繋がっているとかスマホを持っていれば簡単にYouTubeにアクセスしてそれっぽい似た話をしたり顔でするチャンネルが沢山ある。
手元にあるもので十分間に合うと思えば、わざわざ本を買いに行く必要があるだろうか。
本が読まれない、とは必然的にそうなっているのであり、文化が本を必要としない構造だから必要とされないのである。
昔ならこういう日記みたいなものは大学ノートでも買うかちゃんとしたカバーのついた日記帳でも買ってきっちり書き込むものを、
今や自分もこのようにネットの上に直接書き込む時代である。
なんならその辺りの御老人でもGoogleのアカウントを作って、Googleカレンダーに日記を書き込んでいるような時代である。
紙の文化は終わったわけではないが、誤字脱字を気にせねばならず、間違えば横線とか引いて直したり書きたい漢字が出てこなかったり、
手書きだといざという時に困るからデータ化してパソコンやスマホに保管するような時代になっていったのである。
あのとても面倒な履歴書も今やプリンタで印刷するから手書きなんて死んだようなものである。
なお私が履歴書を書けば腱鞘炎になるので、無論歓迎である、というか手書き至上主義が時代錯誤である。
もはや本屋の役目は教科書と辞典を学校用に確保する事くらいなのかもしれない。
その学校もタブレットとかを使い始めたら、いずれ本という本はデータ化され、教科書を持ち歩く必要もなくなってしまうかもしれない。
ノートもタッチペンを使ってアプリか何かでタブレットに書き込んだり、
(私はノートに直筆で書き込んでまとめるのは整理技術的に必要と考えるがそれも時代遅れなのかもしれない)
世の中が紙を使わないようになれば本屋が無くなるのも必然だろう、本は趣味のもの、マニアのもの、
みたいな時代が訪れてきてしまっているのかもしれない。
でも俳句とか短歌は出来る限り本で見ないと何か落ち着かない。
電子書籍で和歌集を買ったが、構造上適当なところをパラっとめくれないから、目を瞑って適当なページを開いてみたらいい歌がある、ような、
偶然で何かを読む、という行為だけはできなくなってしまう。
俳句とか短歌とか一句一首は一瞬のようなものだから、何処からでも読める。
だからページというトリガーは限りなく軽くなければいけない。電子書籍のページのめくり方に慣れていないだけかもしれないが、
ページをパラっとめくる感覚がない限り、何処かに納得の行かない部分が残るだろう。
そんな私は欲しい本を探しに本屋には行かない。ブックオフの古本あたりにしか欲しい本がないようなことになっているからである。
むしろ近くの本屋にほど私が本当に欲しい本が売ってない。やむを得ず紀伊國屋とか都会のデカい本屋に行かなければ何も手に入らない。
生活圏に買える本がないから読む本もない。本当に欲しい本は脚を使うかネットを使うかしなければ手に入らないとか、本屋の意味はあるのか。
紙の本を読むことをしない人が本屋が無くなるからなんとかしなければ、と言うこと程説得力のない話はないだろうと思う。
誠に遺憾である。