スペクトラムとは言語的には「連続体」という意味である。スタンハンセンのテーマ曲を演奏しているバンドの事ではない。
何故敢えて自閉症、で終わりではなく自閉症スペクトラムになったのか。
元々の自閉症、という意味が社会性の障害、コミュニケーション能力の障害、こだわりの強さの3点セットに知的障害を必ず発症している、
という完璧に条件を満たしていないと自閉症と呼ぶこともない、そういうものだったのが、
色々な医学の研究の結果、別に知的障害がなくても3点セットを発症して社会に不適合を起こしてる人々がいませんか、になって、
それらにアスペルガー症候群とか高機能自閉症とか広汎性発達障害とかいう名前を与えていたのが、
結局どれも自閉症の中にあり、緩やかな連続体になっていませんか、ついでに分けるのも何だし一纏めにしませんか、
で、最終的に「自閉症スペクトラム」になって包括されて統一されたのである。
そういうものだから障害の重さにもバリエーション的にも豊富で、全く同じ症状の自閉症スペクトラムの人間を探すのも容易ではない。
そもそも100%発達障害とか0%発達障害というのはあり得ない話である。何らかの精神的な偏り、凸凹は人間である以上何かしら存在する。
色々社会的に適合できるところとできないところを比較した結果、生きるのが難しいことになっている人を便宜的にスペクトラムの中に入れて、
障害的にはスペクトラムの範疇だけれども、特に生きることに不具合がなければ特にスペクトラムの名前で呼ばれることもないのである。
まあ私は色々引っかかり過ぎてあえなくスペクトラムの範疇に入りましたが、不具合の多さを考えたらやむを得ないことである。
普通に生きていれば余計に疲れて、人間が信じられなくなったり、恐れや戦きを抱くようになれば、それはもう生活に支障を来している。
別に知的なレベルに関係なく、生きづらさを感じて、あれこれ悩んだ結果何かあるとネットで調べてその後精神科の門を叩いて検査したら、
実は発達障害や自閉症スペクトラムでした、というのは私を含めてよくある話である。
かと言えば幼少期から不適応を起こして自閉症スペクトラムと早期診断されていたり、診断の時期にもばらつきがあるのが、
自閉症スペクトラムのスペクトラムたる所以であるだろうと思う。
生きるのに難がなければそもそも病院に行かないのだから、診断されないまま一生を終える自閉症スペクトラムの当事者もきっといることだろう。
つまり自閉症スペクトラムというのは診断に行くか行かないかも含めてとても幅が広いものである。
何が診断の基準かといえば「生きる上で不具合があること」だから、症状があっても引っかかる人も引っかからない人もあり得る、
そんな事態を「障害」と呼ぶべきなのか、という所から始めなければいけないのが自閉症スペクトラムのスペクトラムたる所以である。
自閉症スペクトラム障害、とか敢えて障害をつける医者や専門家もいるが、
なんか知らないけど不具合なく生きられる(症状があるけれども)という人は障害と呼べるのかと哲学的な問いでもしなければならないだろう。
かく言う自分も総合的に考えて自閉症スペクトラムのどの位置にいるか、知的障害がないのだけは検査で明らかになっているから、
純粋に社会性やコミュニケーションの問題になっているが、それも比較してどの位置にあるのか。
自分だけでは比較する手段も方法もないから、生きづらさの結果で判断するしかない。とても生きづらいのだけは確かですが。
しかし普通の人からすれば違和感バリバリで何をしたいのかサッパリ見えないと言われるのだから、生きづらくないわけがないので、
結果としてこうなってついでにうつとか背負う感じになったが、うつについては自閉症スペクトラムが誘発したのはほぼ間違いない。
別にハラスメントを喰らった覚えもないので、自分が大きなミスを起こしてひどくメンタルがやられた結果であり、一言で言えば自滅である。
自滅するような精神構造が結果的に「自閉症スペクトラム」と呼ばれるような状態だったわけである。
小さい頃から協調性がないだの責任感が強すぎるだの落ち着きがないだの色々言われましたが、
学習を進めた結果それらの特徴がなくなったわけではなく、そのまま据え置きになったので、学習とかでなんとかできる問題ではなかった。
学習そのものには問題はなかったので大学まで無事に卒業しましたが、それ以外の問題が、棘があまりにも大き過ぎた。
そういう棘にやっと名前がついた、ということで別に根拠もなく不適合になっているわけではないと、
安心するべきではないが診断された直後は妙に安心したものである。これでようやく普通を求めて精神を病む必要がなくなった、と。
あとはもうひたすらマイペースに出来ることをして暮らせばいいと。
出来ないことをした時に与えるダメージが自分のみだけでなく、周囲にも深刻な影響を与えてしまうので、
今盛んに社会から隠れたいとか思うのも被害があまりに大き過ぎたためである。
成功、と呼べるような状況は限りなく少なく、すごくいい、とかではなくまあいい、みたいな成功しかなく、
明らかに大きな失敗をしてばかりで言い訳も許されないような状況を毎日のように過ごしていれば、少なからず世の中は嫌になってくるものである。
誠に遺憾である。