最近自分が勝手にはまっているのは、ブックオフで、クラシック音楽の、
教科書に載っていないような作曲家の名前と曲名だけ見て買う、ジャケ買いならぬ作曲家買いである。
教科書で散々鑑賞と題して聞かされるのは、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェン・シューベルト、
あとは適宜場合に応じてヴェルディとかヴァーグナーとかドビュッシーとかラヴェルとか、
有名だから聞き慣れてはいるし、別に作曲家の好き嫌いはあるとしてもざっくりと時代を把握するには、
先述された作曲家の曲を聴いて通るしかないので、有無を言わさず音楽をやるなら通る道でもある。
しかし広く舗装された場所にある、これがクラシック!と力説するような音楽だけがクラシック音楽なのであろうか?
同時代の、当時は名前が売れたけれども今は何か影が薄い作曲家とか、影に埋もれたままでいいのか。
商業音楽でも昔のはやりという物があって、今のはやりがあって、売れ線という物があって、
そして必然的に売れ線の外にはみ出してしまった音楽は少なからずあると思うのである。
今更グループサウンズとか誰が聴くのか、というような状態だし、あえて掘り出さなければ、
昔の有名な歌手の歌も少なからず埋もれてしまうだろう。
村下孝蔵とか久保田早紀とか大橋純子とか、今あえて聴かなければいくらいい曲でも人々の記憶から忘れ去られてしまう。
現代の曲でもそうなってしまうのだから、クラシック、百年二百年前の音楽なんて尚更である。
むしろ邦楽、純粋な意味での邦楽(雅楽)なんて演奏者も限られて西洋音楽の前ではなんとも影が薄い。
篳篥とか笙とか著名な数名を除いて一体だれが何処で演奏するの?になってしまっているのが現状である。
笙なんて管理することすら難しいですが。あれ組み立てて調律するのにも時間がかかるし、
組み立てて演奏しないときは暖房で暖めなければならないし、そもそも植物は曲がるし折れるしヒビが入るし、
というその辺に立てて放置しておける楽器とはえらい手間のかかる楽器なのである。
そんなのが数種類もあるし、楽譜も書き方が違うし、西洋音楽に入ればまず入らないような道になってしまい、
邦楽なんてむしろ自国民が一番ないがしろにしている分野ではないかと思うのである。
まあ自分も邦楽全部無視してクラシック音楽に脱線したので全く人のことは言えません。
近年色々な作曲家の作品を掘り出して演奏するような団体、取り組みが増えて、古楽の楽器とか、奏法とか、
作曲当時のスペックで演奏する(当然色々現代楽器とは響き方が違う)とかもそうだけれども、
名前だけ書かれても何のことだかさっぱりわからない、生年と没年で何となく時代を把握し、
ああこの人後期ロマン派とか、国民楽派だ、とか、色々想像しつつ、
多分専門家なら知っているけれどもちょっと囓ったくらいだと全く知らない名前の作曲家のCDを手当たり次第に買いあさる。
テレマンとか作品そのものの物量が多すぎて追い切れないよ。
そもそも学校で音楽を勉強していた頃も普通に有名な曲を追えばいいのに、何故かサティからモンポウに入り、
終いにはジョン・ケージに至ったのだからどうしようもない。脇道にずれるのは宿命のようなものである。
そんなマイナーな作曲家を追いかけるなら別にブックオフに行かなくてもYouTubeの検索でもかければいい、
とか言われるとは思うが、そもそも国とか時代とか細かく知らないから検索もかけられない。
店で名前を知ったからようやく時代を埋められるように検索できる、とかそういう言い訳をしておく。
運良くいい曲が見つかれば自分のリストに入れればいいし、合わなくても他の曲はどうなの、とつなげることも出来る。
今はイザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ第三番を聞き流しながら俳句を詠んでいる。
もはや音楽と文学に何の関係もない。誠に遺憾である。