「障がい者に対する合理的配慮」に勝手に強引に寄せて | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

最近コンプライアンスとかうるさいので障害者も障がい者と言い換えなければならなくなった。

それは子供を子どもというような物で、別に何が何でもイメージの悪い漢字を使わせないようにする為の言い逃れみたいな面倒な事と私は思うので、

題名だけ形式的に変えておくが、本当は障碍者と書きたい人間である。ハッシュタグとか表記揺れの犠牲になるものの最たるものだと思うが、

タグも迂闊につけられなくなるので一応記事の中では障害者表記に自分は統一しておきたい。

言葉狩りには承服しかねる。言い方を変えたところで本質の何が変化するのか。


閑話休題。

障害者に対する「合理的配慮」が四月から義務化されるそうで、障害故の配慮を過度にされないようにさらに自己を律することが求められる。

私にとって配慮されるとは強引に人が割り込んできて勝手なことを言い勝手に自分のしようと思ったことを先回りされて何も面白くなくなる、

お前発達障害者だろう、と言われて勝手に配慮される事に戦々恐々としている。

不具合を被らないように配慮、というが、配慮自体が不具合な場合、一体どうすればいいのか。

別に不具合を被ってもいいから他人に関わられないことを最優先とする場合一体私にできることはあるのだろうか。

明らかに他人に危害を加えたり、物を破壊するなど法や公共の福祉に反する行為は別として、

自分は人との間に紛れ込まれたり、急に想像もしなかった話題を振られて頭が急停止したりするので、

適切に人と人との隙間と言うには大きすぎる隙間を広げて行動するしかない。

他人と自分を比べた場合、自分で何が原因で不具合が生じるかを正確に把握していないと迂闊に行動に移せない。

精神とか特に何が原因で行動にバグが発生するか知れたものでもないので、私などは行くべき場所以外行かないようにしているが、

それも合理的配慮的な視点で言えば行動を阻害する心理とかに見なされてしまうのだろうか。

そして何かを察せられたようにヘルパーが入り込んで強制的に外出させられたりするのであろうか。そうならば誠に遺憾である。

好きで一人でいる時に迂闊に人が入り込んだら出ていけと一言伝えなければならない。


それに加えて私の身長とか150センチ代だが、背が低いからといって勝手に気を配られて高いところの品物を渡されるとか、

コンプレックスのある場所に触れられると、プライド的な意味で死にたくなる。

障害者のプライドって何の意味があるのとか言われそうだが、目が見えているのに見えない的な対応をされたり、

身体が動くのに動けない扱いをされたりとか、出来ないことはあっても、出来ないことをするために、

介助がなくても出来ることまで巻き添えにされたら生きてはいられない。私は何でも助けられないと生きていけない赤ん坊みたいなものか、と。

あと一歩の場所までヘルプが必要であったとしても、最後の一歩は自分で踏み出さないといけないような気がする。

その一歩すら踏み越えた合理的配慮は、配慮という名前を借りた余計なお節介である。

義務、という言葉は人に何かを強いているようで気に食わない。なんなら私が普通に街中を歩いていて身体障害者が困っている場面に出くわしたら、

私が精神に障害を抱えている事を一切加味しないで合理的配慮に移らなければいけないのだろうか。

そこでパニックに陥ってその場を急場凌ぎで離れたとして、障害由来のパニックだということなんて他の人から簡単にはわかってもらえないだろう。

で、あいつ何か逃げたとか言われて、問い詰められたり追いかけられたりして、細かく事情を説明しなければわかってもらえないものなのであろうか。

確かに外から見れば私は(しばらく見れば行動的に障害者だと明らかになるが)五体満足に見えるが、

障害者に合理的配慮を強いているのは、強いられているんだ!と言わないけど言いたくもなる。

私が心に余裕のある時は自分の部屋の中か区切られて一人でいる時だけで、あとは大抵余裕はない。

その余裕のなさにも合理的配慮が加えられるとしても他の人が一体何をすればいいんでしょうか。

障害者本人がわからないものを他人にわかれと言うなんてそれこそ思い上がりである。誠に遺憾である。