人間の会話のもたらす疲労感というもの | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

色々人間性を拗らせた結果、人間性を何処かに捧げたかのように、人間性が何処かに行ってしまいました。

その行方は自分も知らない。

人間性が失われた結果、感情的な振る舞いに明らかに拒絶反応を示すようになったり、

緊急事態の時に全く声が出せなくなったり、会議とか人の集まりがとても億劫になったりしました。言われなくても重症です。

私には人間性の何が面白いのかはさっぱりわかりません。何が面白いのでしょう。

褒めるならともかく、けなしたり、罵倒したりハラスメントを加える事のどこに目的や面白さや娯楽性があるのでしょうか。

小さい頃は無邪気というか善悪を知らなかったから何も構わないであれこれ言えた。

年を重ねて明らかに言えないことはわかってきた。しかし、感情的に場にそぐわない話し、という概念は障害が判明してからもわからない。

わからないなら、何も発言すべきではない、言えば言うほど自分の首が絞まっていくのがわかるのに、口を開く理由がわからない。

もう何も言いたくない場面があまりに多すぎて場面緘黙を疑われても仕方がない。

でも誰が好きで誰が嫌いで気に食わないとか迂闊に口にできますか。集団でそういう話題になっていてもついて行きたくない。

何を口から引っ張り出されるかわかったものではないから。

沈黙は金なり、という言葉が身にしみてわかる瞬間である。もう皆んな黙っていればいいのに。

黙って目の前の仕事に取り組んでいればいいのに、どうして火種を増やしたがるのだろうか。

何を言ってもどうしようもない、とわかっていて口を開くなんて暴挙以外の何物でもない。

会話なんて構文にでもしてしまって一定のプロンプトで供述できればいい。特に儀礼的なものでも構わないしむしろ厳密な方がいい。

そんなのディストピアだろう、と言う人は、あまりに空気を読むという概念がなさすぎて何を言っても舌禍になる人の気持ちはわからないだろう。

自由度が少なければ、パターンが限られていればそれに則って発言すればいいから、自分のようにフリートークをすると爆弾発言しかしない奴でも、

短い時間であれば何とか乗り切れるかもしれない。逆に時間が長く話題が広がっていて、何から話したらいいか掴みどころがないととんでもない場所を掴んで振り回す事になる。

今まで宴会とか話し合いとかが成立しないような事の中には、後で明らかに自分が原因だろうと思う事が明らかに多すぎた。

だからどんどん口数が減って行き、何を話しても地獄、という認識に近づいていった。

自分で最初から最後まで書ききる文章なら他人の関与なんてないから、この通りペラペラと書く事ができる。

しかし他人との関係が前提であるコミュニケーションとなると、他人の反応を読み取って柔軟に反応しなければいけないから、

それからどんな突発的な出来事が起きて簡単に軌道が変化してしまうかわからないから、

自分のように感情を理解しない人間には困難な事の最たるものに入ってしまうだろう。

実際感情を読めないから話が面白くならないし、他の人が笑ってるけれども何で笑っているのか、本当にわからない時が出てくる。

同じように自分が笑っていても他の人には何故私が笑っているのか理解しがたいだろう。そして後で説教されるのである。

そんな事が長く続けば、会話なんて何が面白いのかは全くわからないし、

話をしても五里霧中で、本当に手探りで闇の中を探している最中に、会話で不満がたまった人に刺されるようなことになる。

誠に遺憾である。