趣味は独りで取り組むもの、そして匿名でやること | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

メンタルヘルスの為には、何か自分が本当に打ち込める趣味を持つべきだ、と色々な精神科の本で言われる。

取り組めることがある、日課として、ルーチンとして組み込めることがある、

そうすればそこだけは嫌な事を忘れていられるし、明日の活力になる、と。

しかしここで一つ考えなければならない。それは公開すべきなのかどうか、と。

InstagramとかXではこれ見よがしに様々な人々が色々なことに取り組んだ結果が投稿されている。それを見た人はいいねとか称賛を送る。

では何かやったことを自分が同じように公表して同じように賞賛されるか?

そこを考える人であれば公開なんて後悔するだろうからしない方がいい。

それとも自分の名前や素性も一切隠した匿名で誰だか分からないようにしてしまうか。

自分だという事を隠し通せれば批判があっても自分ではない事だと、個人が特定されるまでは紐付けを避けられる。

何でも独りで生活して趣味も全部独りでやると、チームワークで分担もできないから責任が全部自分にかかってくる。

そうなると賞賛も批判も全部自分が直接食らうことになるから、私のように対人関係の障害がなければある程度分担して責任を極端に負わない様にする。

分担できないならば自分なんていなくなるようにして何とかのらりくらりかわしていくしかない。

色々あった自分など、自分の名前を出せば過去の事を知っている人間に追い詰められる被害妄想を抱く事になる。

それはもうフラッシュバックを引き起こす程度のトラウマであるから、意図的にも意図しない形でも避けなければならない。

過去の罪とは本当に拭えないものなのです。

出来れば何かしている所を見られたくもないし、なんならその為だけに家出でもしたい。そして山奥に籠って隠遁してそのまま終わりたい。

何をしているか分からないし近づきたくもないと思われたなら私には上出来である。

そうする事で自分の頭の中を現実に具現化する事が出来る。様々な芸術的方法をとって。

絵でも文でもその他の媒体でも、伸び伸びと出来る事が何よりも重要である。趣味なら本当に人の目なんて気にしていられない。

そこを間違って人間関係の中に飛び込むと色々な上下関係があったり、組織の中の不文律があったり、期待していたほど思う様に動けない。

何よりも自分の才能を嫌でも目の当たりにして現実を知ってしまうから、精神の平和を保つ為にやる趣味はまず人の中に飛び込むべきではない。

他のなんでもないもののためでなく、純粋に自分の保養の為にやることを人と比べてはならない。

何でも比べてしまえば不幸になる。でも自分のためにやる趣味ならば、別に大谷やイチローや藤井聡太を目指さなくてもいいわけである。

それを言い訳にするわけではないが、趣味で逃げ場所をなくすのは仕事の逃げ場所をなくすより個人的にはきついと思っている。

仕事でも趣味でも逃げ場がなくなれば本当に追い詰められるばかりである。何も安らぎがなければ、本当に「生きている」と言えるのであろうか。

誠に遺憾である。