私はこうやって発達障害(自閉症スペクトラム)に起こりうるよしなしごとをそこはかとなく書きつくることが日課である。
つまり障害の地がでた文章や表現の癖が、気がつくにしろ気がつかないにしろ、あちこちに散りばめられているという事になる。
それを他の人が見て文書の表現が間違っているとかここはこう変えたらどうかとか、とにかく手を出したがる人とは組みたくない。
文章が暴走しているのは承知の上で、特有の表現とか味とか勢いを殺したがる人と文章の仕事をしたならば文芸の方向性の違いで解散するだろう。
校正、訂正というのは、文章の意味や文脈を弄って直した人が誰にも無難に思う、ということが最善であるとするならば、
本当に不毛であり、模範的なものしか許されない、幅の狭い社会になるだろう。
そもそも自分は正常ではない、というか、少なくとも少数派である事は身に沁みてわかっているので、逆に言えばそれが持ち味になる。
その棘を一本一本丁寧に抜かれて、なだらかな、起伏もないような、無難な正常な文章ですね、という形に直されたら私は腹を立てるだろう。
少数派は何処まで多数派におもねる必要があるのですか、と。
漫画で言えば他の媒体、テレビドラマやアニメ等の作品を作ったら、
原作の原型を留めさせてもらえませんでした、ということをされるようなものである。
そんなの別に心が偏ってなくても抗議には行くだろう。私の真意はこの形ではない、と。
真っ赤になるまでペンを入れられて、無難な表現にされコンプライアンスだのポリティカルコレクトネスだの言われても、
私の立場的にはどうしても精神的に偏った部分があり、そこを直したら信条として整合性がなくなるような箇所を、
いともたやすく直されたら腹の一つや二つでは足りなくなるほど腹が立つだろう。
己の真意を曲げられて納得する人間なんてそういないだろう。健常者でも障害者でも。どんな媒体の作品でも同じ事である。
こんな場末の文章にまであれこれ変えろ、というならわざわざ端で恥を忍んでやっている事を潰しにかかっているようにしか思えない。
言論の自由というのは、自分が公共の福祉の範囲で自由に発言できる事、責任を持って発言する事であって、
発言したこと、発表したことを勝手に無作為に、強引に無難な表現に捻じ曲げることではない。
棘を事あるごとに引き抜いて本当の意図まで引き抜かれるのは魂を抜かれるのと同じ事である。
誠に遺憾である。