権力への意志のないものがニーチェの『権力への意志』を読むなんてどんな冗談だろう!
私は私の性分、他人のことを他人としてしか思えないが故に客観的事実など半分くらい実にどうでもいいことだろうと思っている。
エゴイズムに陥るのも、結果として脳の構造、俗に自閉症スペクトラムと言われる典型的な行動の傾向のままに存在するからであろう。
自閉症スペクトラム=エゴイストではないが、他人の事をあれこれ考えて行動するものの対話中の相手の感情の流れが見えなかったり、
その上で(相手の感情を読み誤った上で)他人の意図しない行動を安易に行なったり、
その場の空気なんて知らない(実際知らないし読めない)ように行動してしまうことの中に、
エゴイストにならない要素なんてあるのか。むしろそうなるべきである。そうとしかなれないのだから。
他人の事を考えられない人に他人の事を、他人の気持ちを推し量れ、と常々言っても根本的にどうにもならない部分は本当にどうにもならない。
性格的な問題でどうにかなるならまだいいが、精神医学、脳医学的な意味でどうにもならない部分は何処まで力ずくで何とかすべきなのか。
組織的、精神医学的な多大なアプローチが必要とされるだろうが、当然賄われるべき人的資源、医学的薬学的資源に耐え得る発達を保証できるのか。
真っ直ぐに伸びられない植物に多大な肥料を与え、茎を縛り付けて伸びるべき方向を邪にし、
仮に真っ直ぐ伸びて多大な収穫をもたらしたとしても、獲れたのはいいが、獲られた方は己のご要望に添えた伸び方になったのか。
人体的に言えばずっと脊椎に矯正具を入れられて何らかの薬剤を注入されながら、おまけに外から絶え間なくしつこく話しかけられるようなものである。
一日中関係されるなんて実に鬱陶しいしそれだけで精神的に病みそうである。
骨折や関節の痛みなどからのリハビリテーションなどは、現状からの明らかな回復が見込まれるか、
やめると急激に生活のレベルが下がってQOLが悪化して見るに耐えられなくなるから、
実際にやらなければいけないし、その分の効果も充分に見込まれるから実施される。
然るに心理療法のある程度というのは、精神の矯正を図るものの、精神的な楔にならないだろうかと危惧するものである。
身体は、筋肉が増強された、折れた骨が治って神経もちゃんと繋がった、という目処や終わりがある。
然るに精神についてはここまでやったら終わりという境目が存在せず、定期的に継続的に、
「これから時代が変わるがいつまで治療を続けられるかな…」と聞かれて、
「無論死ぬまで」と本人ではなく医療者の方から言われそうで怖い。
治療をする、という一歩を踏み出すところから諸刃の剣を握り続けているわけである。
脚が壊れた場合、骨折を治す、ちゃんと骨を繋げる、筋肉も付け直す、と明確な目標と課程があって、実行すれば結果が出てくる。
精神科というのは結果の見えない「望まれた人物像」を追い求めて頭に働きかける医療である、という印象を一部分に私はもっている。
ただその「望まれた人物像」に近づけたまさにその時、私の人格は一体どうなっているのだろうか。
「望まれた人物」である限り私本来の「望むべき人格像」との食い違いの噛み合わせが進んで、
同一化してしまったら、それは私ではなく「望まれた人物像」という本人らしきものがあるだけだろうと思う。
そこまでいったら果たして治療と言えるのか。精神医学はかつてロボトミーなんてけったいな治療を施して後世に痛い反省を残したが、
別にコミュニケーションをしない限り、他人に危害を加えない人間の何を矯正しようというのか。
人と張り合えというとか、競争心を、闘争心を持てというのか、人と争う心を持てというのか。
そういう人との無益な争いに疲れて人間がストレスになって心療内科に行って発達障害とついでにうつ病とも言われたら、
むしろ一般的な欲なんて抱えない方が平和に生きられるのではないか。収入とか度外視して。
この世の構造自体が自分の精神構造に合致できない、させられない、という人は一定数存在するであろう、と私は思うのであります。
欲もないのに働いてどうするのか。目的のない労働なんて実に徒労である。金のために死んだ目をして動かなければならない、そこに私はいるのか。
やりたい仕事をやっていたらコミュニケーションが成立しなくなり、必然的に仕事から追い出されることには正当性しか存在しない。
しかしドロップアウトしたところで無理矢理一般的な労働、という「普通の」軌道に戻させるべきなのであろうか。
労働のために本来自分が生命をかけてやりたい事をガリガリ削られれば生きる意味を失う。
私なんて静かな部屋にクラシックを鳴らしながら適当に『権力への意志』など手にとって読み耽る、
世の中なんてどうでもいいから自分のことに時間をかけさせてくれ、他人の役に立たない人間なんて駆り出してどうする、
実際他人に時間をかけても逆に迷惑ばかりかけたり、親切が空回りするのが関の山だから、
などと意味不明な事を言いながら俳句を詠んだり、一人の作業に打ち込んでいくだろう。周りから見れば徒労にしか見えませんが、
私からすれば他人のためにあくせく身を削り続けることこそ徒労に見える。客商売とかよく身が続きますね、と思って見ている。
別に金を稼ぐことだけが仕事ではないのです。それが無上の価値だと思う人とは話をしたくないし、しても喧嘩別れするだろう。
価値観、というか構造が根本的に異なるからである。そういうプライベート的なところまで精神医学が土足で入り込んでしまえば、
間違いなく精神的危機に陥るだろう。私には良心の自由すらないのですか、と。
誠に遺憾である。