X(旧Twitter)やその他匿名で投稿できるSNSの発達で、簡単に人の意見を覗けるようになった結果、
簡単に人の死を茶化す人間(アカウント?)が意外と多いのは閉口する。
人前で宗教や政治やスポーツの話をしてはいけないという暗黙の了解の弊害であろうか。
その発言をしたときに誰が見ているか想像もできないというのでは、何処でも同じだろうと思う。
別に匿名だから何処までも個人が隠し通せるというわけでもないのは、
誹謗中傷を執拗に繰り返して名誉毀損罪で捕まった人が後を絶たないのでもよくわかる。
簡単に人を笑いのネタにするとかは何処であっても慎まねばならない。
何気なく発言したその場に、今批判している事柄に関係した人が居ないとどう言い切れるのか。
私など外ではあまり発言しないので何を考えているのかわからない、と言われるときがある。
むしろ何も考えていない方がいいのかもしれない。発言をすれば何かに引っかかるからである。
口から言葉は簡単に出すことができる。しかし、その言葉は同時に斧になる、と仏陀は説いている。
昔から口は災いの元みたいな概念はあったのである。
今も同じであるということは、世の中案外変わっていない、人間が「今の若者は…」と永遠に言い続けるように。
積年の恨みとか不倶戴天になり得る何か、というのは誰にも存在しうるだろうが、
その相手が死んでまで舌鋒鋭く批判して止まないのは、心が病まないのか。いや、いまそこで病んでいないだろうか。
政治や宗教というのは生活に深く根ざしているが故に、どうしても思想信条の違いとか、
同じ方向に進んでいたとしても微妙な方向性の違いが嫌でも明らかになってくる。同じ所にいるからである。
近くに居るからこそ見えてくる物があるが、それは細かい故に、外から簡単に口出しできるものではない。
余計な口を挟むとはまさに人前で宗教の話をするようなものである。
何も関係ないが大勢の阪神ファンの前で急に阪神をけなしたり巨人を褒めれば罵倒されても何らおかしくはない。
それだけのことをしているからである。
スポーツでもそうなりかねないし、なんならサッカーとか簡単にフーリガンとかが結成されて暴動や暴力に走ったりする。
もっと生活に近い政治や宗教の話が火種にならないわけがない。
その一線を踏み越えるのか、いやむしろ踏み越えるべきである、と言うのがSNSの過激な言動を繰り返す連中である。
もうインフルエンサーなんてインフルエンザ扱いにしてしまえばいいのに。
「はい論破」なんて簡単にできる物ではないのです。
むしろ言いっぱなし扱いにして放置できればどれだけの人間が平和に過ごせることだろう。
ああ、あいつなんか適当なこと、意味不明なことを喚いているな、と。
しかしその数が多く、内容も実に感情的で、となればもう簡単に止めることはできない。それが集団心理の恐ろしさである。
なんか誰かが言っていたことは自分も言ってもいい、という心境に簡単に陥る構造こそが批判されるべきである。
感情的な批判なんて「バーカ!」と言っているに過ぎないが、
面前でもSNSでも、百人ぐらいから、あるいは行列ができて「バーカ!」と簡単な中傷でも次々に投げかけられれば、
誰の心でも簡単にヒビが入り、そのうち壊れてしまうだろう。
簡単な罵倒を簡単に言えるような条件がそろってしまえば、誰でも同じことを言いかねない。
心の娯楽がなければ尚更である。幸せを見いだせなければ人を馬鹿にすることでしか心を満たせなくなる。
そんな社会に誰がした。誠に遺憾である。