私は誰にも私の事を退廃的な人間だと思われても仕方がない。そういう生き方をしているように見えるからである。
だが私には道徳がないと死ぬ。規範であり模範であるところの道がないと死ぬ。ノールール、バーリドゥードだとモロに死にかねない。
誰もが正義だと思う道は、絶妙なバランスの上に成立しているので、人間関係に難のある人間ではとても歩く事ができない。
どこかから来たのに振り落とされるだけだし、実際過酷なまでに振り落とされた。
だからといって反社会的な事や不道徳的な事をしようとも思わないしそれは良心が耐えられない。
道徳の真ん中を歩かないで端の方をなんとか落ちないで歩くくらいの力はないといけない。
さもないと生きる事に耐えられなくなる。
正義とかわざとらしい言葉は要らないが物事はある程度の枠内に入っていないと落ち着かない。
何らかの法則内で動いていないと不安でたまらなくなるからである。そういう意味でも不道徳であったり規則に違反する事は耐えられない。
だが人といる以上何処かで自分の定めた枠から何かがはみ出る機会というのは確実に存在する。
そこを落ち着ける際は、なるべく一人になってクールダウンしなければならないし、
冷静さを欠くようなことがあってはさらに外の闇に弾き出されかねない。
何かバランスをとれないのにバランスをとらなければならないような話になっているが、
ルールが硬く守られている場所なら平穏だし、そうでない場所なら早死にする程度と見てよろしい。
むしろ神経質なまでに硬直化している規律の中にいた方が私は暮らしやすい。
そうでなければ一人になって自分が規則になればいい。守るのも破るのも私一人であれば誰を困らせるだろうか。
なので規律を軽く見る人には近づかないし、話しかけても簡潔に終わらせる。自分を守るためである。
そういう意味では変な校則とかがあってもそれは守れない奴が悪い、変えるなら厳密に守って死ぬほど苦しんでから言ってください、
などと訳の分からないことを言いかねない。私にとって規則とはあるから守るものである。
規則が順当に変われば変わったものを改めて守ればよい。賛成とか反対はその後の話である。
道徳や規律で自分を雁字搦めにしておけばそれ以上動かなくて済むから安心する。
自閉症スペクトラムの当事者が精神的に危機に陥った時に分厚い布に全身を覆われて落ち着きを取り戻す、そのような感覚である。
その分厚い布がまさしく道徳や規律なのである。臨機応変というのはその布を誰かが強制的に引っ剥がした状態なのである。
一定の規律の中にいて済むならそういう仕事でもやらせればいいのに、世の中はそうは行かない。
誠に遺憾である。