美しさというのは、兎に角個人的なものである。
個々に追っていけばキリのないものをずっと追い求め生きているようなものである。
しかし美しさを求めるあまり他人に恐怖を与えてはならない。あくまでも無害なものでなくてはならない。
目に見えるもの、目に見えないで他の感覚で感じられるもの、あるいは第六感、
その全てにおいて誰かに恐怖を与えてはならない。
なんかいかつい珍走団、ゲーミング的な発光ダイオード、鼻につく香水、コロナ禍でのノーマスク等々、美しさは恐怖に先行すべきではない。
何かを履き違えた連中が、本当に履き違えた時、恐慌が巻き起こる。
刃物や鈍器を手にして何処かに乱入したり、油を撒いたり、火を放ったり、
損なわれた美しさの代償として取り返しのつかないことが度々引き起こされる。
しかしその美しさというのは個人に立脚するものであり、ある意味感覚的なものであるから、
誰かに言葉を尽くして説明するにしても到底説明しきることのできないものである。
あまりに失われた美しさが大き過ぎると、本当に立場とか根本的な価値観に関わるものであるから、
一層他人に説明できないものであるし、精神病的なものが混ざればさらに理解が難しくなる。
言葉というのは今書いている事しか言えないから、全容を一気に言い切る事も不可能であるし、
一文ごとに内容を切り取っていくから、言葉を積み上げればだんだんと積みにくくなっていく。
説明しきれないところは崩れていくしかない。
合わないところを誰かに説明されても理解しきれないし、何なら何を言ってるのかさえ理解できないかもしれない。
美しいと思う概念があくまでも個人的だからである。到底集合知のように集大成をまとめあげられるものでは決してない。
しかし美しいというものは個人的な概念であるがゆえに簡単に衝突する。
この色は合わない、この味は合わない、感覚の全てで衝突する。
対立したり合致しない美しさをこっそりしまえるならいいが、事を追い詰めると恐怖が生まれる。
あからさまな否定、嫌悪、拒絶を含めた恐怖である。そうなるともう良識で事を片付けるわけにも行かなくなる。
荒々しい法律の出番になってしまう訳である。
美しさというのは淑やかでなければいけない。人とぶつかるからである。人に恐怖を与えるからである。
あらゆる意味を超えて恐怖に至る美しさというのは、人を踏み越え、蹂躙し、脅して人を恐縮させ固めてしまうものである。
パブリックからプライベートまで全て等しく薙ぎ払う波のようなものである。
そんな美しさならない方がいい。美しい、ではなく美しかった、とでも言えばいいような、吐き捨てるような美しさ、
美しさというのは個人的であり、個人の内で収まってしまえるものでなければならない。
はみ出る美しさは決して美しさではない。誠に遺憾である。