ニーチェにならいて | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

きっと私はニーチェに比べれば知識もないし学識もないし哲学もないし、そして何より狂気が足りない。

静かに落ち着いて暮らすことが哲学の真意であるか?

自分の問題を自分の問題として徹底的に切り込むのが哲学ではないだろうか?

などと思うととても自分が哲学をしているとは思えなくなる。

客観的真実や客観的に望まれた人格は主観的な真実に対して理想的であり得るか。

自分で自分を思うにとんでもない馬鹿馬鹿しい人間だ、真理などとても達成できそうにない、

けれど真理を追い求める権利はある、などと思って生きている。

そんなことを適当に思いつつ、ニーチェにならいて、アフォリズムを書こうとして、

大したことでもない短文を適当に数珠つなぎにした塊を毎日投稿して生活している。

何はともあれ、書き残すことが生きがいであり、生活であり、ある意味自分の生き様のようなものである。

どんな駄文でも書かないと生きている気がしないのである。

自分の心の声に従い、自分の思ったことを、できる限りちゃんと形にして残しておく、

別に誰の遺産になるわけでもないが死ぬまでやり続けなければいけない。

自分が自分であるとは何か、自分らしく生きることとは何かを追い求めた実存主義を追い求めていけば、

客観的真実、カントやヘーゲルなどの哲学はどうしても実感的な物になりにくい。

自分という主観を掲げて保っていられるのは自分一人であるから、どうやっても他人に憑依などできないわけで、

いくら病んでいようと死ぬまでこの体で思想を語り続け、答えを求め、そして死なねばなるまい。

死ぬときに何をつかんでいるかは不明だが、哲学なんて永久に終わらないようなあべこべな問いを繰り返しているので、

答えなんて見つからない方がかえって自然である。そんな簡単に真実を見つけられるようなら諸学問の意味もない。

それでも自分が生きている以上基準が自分の価値判断しか見当たらないし、

誰かに判断を仰ごうとしても、その特定の「誰か」がいつまでも自分のそばに居るとも限らない。

つまりどれだけ未熟だとしても、主観的に動くことができなければいけない。

周囲の何か娯楽とか自分にとっては薄っぺらい話を聞いたりしても、真理の前では風の前の塵に同じである。

何故人は真実がある方向に至ろうとしないのか。また歩いて行こうとしないのか。

美しさ、という言葉を分解し意義を問いただすことはそんなに余計なことなのであろうか。

まあこんなことを言っているから世の中に適応できないのだということはわかる。

世俗的な物を嫌がってとことん逃げ出そうとした結果がコレだよ。とても他人には正視できるものではない。

何故そんなことに命を投げだそうとするのか、などと思われることだろう。

だが自分にはそれしかないのである。一般的な人の追い求めている一般的な回答は、私が追い求める物とは違う。

違うからこそ自分で探さなければならない。自力でしかどうにもならないものを他人に頼れるだろうか?

否。先人の著作に体当たりして自分で探さなければならない。

私にとってそこで主観的に一番腑に落ちるのはニーチェでした、ということなのである。

これより前のアリストテレスとかデカルトでもいけないし、これから後のデリダやドゥルーズでもいけない。

キルケゴールとかニーチェが刺さる、と言えば語弊はあるだろうが、哲学的かどうかに関わらず、

実存主義が体に一番しっくり来るのである。でもサルトルだけは思想的な意味でご勘弁願いたい。

何となく吐き気がするというのは間違いなく違和感であろうから。