私にとっての「自由」とは | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私にとって自由とは、何物にも煩わされない時間と空間がある、そしてそれを外部から引っかき回されない、という事である。

極端に言えば家に帰ったらずっと一人がいい、と言いたいだけである。

部屋に籠るどころか、あらゆる連絡手段を断ち切って自室にいるのが理想である。

生きているのか死んでいるのかわからないくらいに浮いていても別に不満はない。

プライベートでは仕事とかはおろか、友人が勝手に家に来ることすら避けたい。

友人はいませんが。理想が上記の通りなので新しく作る気もありませんが。

外は外の関係としていろいろとしなければならないことはあるし、外での最低限の人間関係(不器用)はこなさなければなりません。

しかし外の時間が終わればもう外は外で放置するに限る。ストレスというのは一人でないと癒されないものである。

誰か人間がいれば気にかけるためどうしても心の安らぎにはならない。できれば祭りとかイベントとか急に知人とエンカウントするような、

予期できない、誰がいつ急にそこに来るのか予測がつかない不安定要素は切るだけ切っておきたい。

孤独が私にとっての癒しなのである。もうスピリチュアルとかという次元ではない。

一人で一人という名前の深海に潜り込んで自分の世界以外極力紛れ込まない空間と雰囲気を作る。

理想がそんな感じなので、当然のことながら他人の家にも呼ばれたくない。

他人の家に行くのも親戚の家にごく稀になんかの義務で行く以外には行かない。

それ以外の知り合いの家とか、別に呼ばれないから行く義務もないが、親戚の家を除けば十年以上は人様のご家庭を訪問していない。

誰の家にも行かないし誰も来ない。一人の部屋で何かするべき事を探して一人で作業に打ち込む。

そしてそれを苦しいとか寂しいとか孤独だとかとは思わない。むしろ人間が苦痛であると言い切ってもいいかもしれない。

形式的には確かに孤独以外の何物でもないが、孤独である事に引け目や不安を抱えていない人間は本当に孤独なのだろうか。

むしろ始めに書いたように孤独がこの上ない自由と言い張る人間に人間をぶつけることが不幸ではないだろうか。

そして、どうあがいても人間に疲れる人間は本当に人間なのであろうか。

この部屋は私の部屋である、という僅かな空間があって、プライバシーが保護されれば、

おそらく私は極力仕事と買い物と手続き以外で外に出ることもないだろう。出る意義が全くないからである。

他の人からは部屋から出て来ない、何をしているのかわからない、とか言われても仕方のない状況であるが、

そうしなければ自分が救われた気がしないし、人の間では死んだ目をしているから、

人と人の流れが何もない、自分の欲望を真っすぐ上に積み上げた部屋に籠るのが最善である。

それを訓練とか言って人の中に紛れ込ませようとしても、清流と濁流が混ざり合えば結果的にドロドロになるように、

私の精神の大事なところもドロドロになって歪んで軋んでいくのである。

人と話すのに疲れたら壁と話しているくらいの自由は何時でも欲しいものである。

誠に遺憾である。