小さい頃から、何となく知識は世界を救う、みたいな考えに陥っていた。
何故なら体育の成績が留年がかかるくらいに致命的だったから。
まずCと1(評価的に最低)の山を食らえば嫌でも身体能力が平均以下どころか水準を大きく下回るのを理解するし、
いつまで経っても同じ結果、なら頭に打開策を見出すより他はありません(切実)
そう思って兎に角教養と文化レベルを高めようと、何か教養ぶった本ばかり触れるとか、
大衆的なもの、簡単に見られるものには嫌悪感を示して敢えて触れないで通り過ぎるとか、
意図的にも程があるくらいに清純派(清純とは本当に何だろうか)を狙っていたので、
偏った知識は確かに身についた結果、反動として世間と常識知らずになりました。
尤も発達障害に気が付いてない頃ですでにこのような偏った方針なので、
今になっても読書したい時には人と交わる事もせずただひたすら本の虫、である事は言うまでもありません。
これでも一応元合唱部員だったんだぜ(意味不明)
お陰様で高校から無事論語を読み始めたり、原始仏教に触れたりしたので、周囲とどんどん乖離していったのは言うまでもありません。
大学でも音楽をしてなければ十中八九哲学科に進んでいた事だろう。
一貫して思想や教養のない人間になんてなりたくない、とは思っていたので、
そこだけはブレずに完遂しました。お陰様で周りと読書の話をすると全く噛み合いません。
哲学や宗教学が教養的に高いレベルなのかはさておき、大衆文化とはかけ離れた位置にいる事は間違いないだろう。
兎に角哲学でもなんでも「朝に道を聞いたら夕方に死んでも構わない」感じのスタンスでやっていたので、
周りからも兎に角浮いていたり、はぶかれたりしていたしそれを寧ろ当然だと思っていた。
誰も邪魔に来ないのは実に好都合、こちらの世界、ウチの庭を踏み荒らさないでくれ、と第一に思う人間は、
時折どんな人間が視界に入るだけでも邪魔だと思うような気性の荒さを見せるものです。
今でもそんなに変わりませんが。
そういう意味で、狭いスペースでも自分だけの空間を確保できればミニ出家完了、などと、
意味不明なことを思うのであります。だって人なんて読書の毒じゃないですか。
本を読んでいる時になんか雑な用事で呼ぶ人なんてブロックかミュートして放置しておきたい。
そうして得た色々な知識は、先述のように大衆文化とかけ離れていたり、そもそもマイナーすぎて公共の福祉のためには役立ちません。
そもそも大体役に立たないのが哲学の醍醐味である(意味不明)変に役に立っても困る。
気がついたらえらく遠い場所まで来てしまったが、それについてそんなに後悔はない。
むしろ大衆ににじり寄ろうとしたその心根に後悔するだろう。つまり大衆には妥協しない、と。
全く人の役には立ちませんが、私の頭の中には教養がガッチリ詰まっております。
本当に何の役にも立ちません。結果的に人と関わり合いになりたくないと思うような学問を優先的に身につけた結果であります。
お陰様でなんか周りと見えない壁があるように感じますが、それはきっと護身がある程度完了しているからなのでしょう。