安倍元首相襲撃からの一連の流れを振り返るたびに、宗教的に複雑な家に生まれなくてよかったとは思う。
自分はなにかとメチャクチャですが。
安心していろいろな宗教の本を買い集めて本棚に並べて読む自由がある、ということがどれだけの自由なのか、
厳しい家とか家が寺院とかならきっと考えられもしないことなのだろう。
宗教がいけないのではなく、宗教がかけてくる束縛、がいけないのではあるが、
金とかが絡むと途端に何もかもが憂鬱になるくらいに胡散臭く見える。
何かを追い求めるという態度や姿勢は重要なのだろうとは思うが、それを自分のみならず、他人に強要することが、
宗教的のみならず道義的に見て正しいのであろうか。
そういう道を追い求めるなら、昔の宗教家がやったように、山奥に籠もって静かにやっていただきたい、
などと日頃から山に籠もりたくなる人間は思う。
布教活動、とか言うが、道を求めるものは何か情報を集めて自然に集まってくるものである。
あれこれ強引に呼びに行くのを自然とは言わない。ましてや資金を集めに回るのを自然とも言わない。
その道が正しいならば無理矢理に道を作ろうとしなくても成立するものである。
何でもかんでも布施とか寄付とか言われたら多分自分なら死んでいる。
そういう人のやりとりが非常に面倒くさい、というか勧誘がらみで非常に面倒くさいことに実際になったので、
できる限り宗教という衣服は薄く、身軽にしておきたいものである。
宗教というのは権力というものとは無縁であった方が自然に見えるものである。
この世が儚く無常だから、現世を豊かに厳かにしよう、というのではなくて、
何というか、天国だったり、浄土だったり、要するに輪廻の輪の中から抜け出そうとするような緩やかなのが、
私にとっては宗教らしい、と思えるものなのです。
「高価な墓石を建てるより安くても生きている方が素晴らしい」と言うではありませんか。
それが一番大事だと自分は思うのです。