特に意味はないのですが、自分がブログを始めてから大体9年になります。
多分最初の頃とかに比べれば文体もノリも勢いも毛色も随分違った文章になっているのではないかと思います。
物事のプロになる、には一万時間が必要、などとまことしやかに語られておりますが、
別にブログを始める前から、このように日記とか随筆とか色々思ったことは何処かに書く、
というのは高校生から日課にしているわけでありまして。
まあ学生の頃の考えなど今も思いっきり偏っておりますが、若気の至りという文章は本当にノリと勢いなので、
盗んだバイクで走り出したりはしないけれど相応に若者っぽい過激さを身にまとっていたと言えなくもない。
今は昔よく考えていたような政治的な主張はなりを潜め、ほぼ内面的なことを書くことが日課になっている。
ともかくどんな思想や主張であれ、思ったことはちゃんと書き残す、が日課になっているので、
多分軽く文章を考える、書く、推敲する時間を足したら二十年はかかっているので一万時間は超えているだろうと思う。
こんなものでプロになっていいのか、とは思うし、こんなものでプロになっても本当に困るが、
別にプロでなくてもライフワークにすることは出来るはずである。
継続は力なり、というように、飽きずに懲りずに時々反省しながら出来る限りのことはする、
というだけで何かをやった気になればそれはそれで十分だろうと自分は思う。
多分文章を書くネタを考えるために何か閃くようなことがあると書かずにはいられないような、
そういう生活パターンが出来ているから、もう文章を考え、書くことが人生の基盤にはあると思う。
それで金銭的に生きられるかはともかく、自己を表現するという観点では精神的に生きていると思うのである。
この辺過集中とか一つに拘り抜く、という発達障碍的な作用(病状)がなければ、
別に利益でもなければその辺にぶん投げてもおかしくないだろうとも思うし、
別に誰に見られるでもないような文章を9年分も公開したりしない。
収入がないという事を除いて、文章を書くということはやりたいことをやって生きるということなのである。
残念ながら仕事に打ち込むことで自己実現を果たすどころか、発達障碍が見つかって仕事どころではなくなりましたが、
金を稼ぐことだけが人生の意義なのだろうか、などと最近の物価のインフレ具合とか外国の動乱とかを見ながら思う。
資金があってもやりたいことが出来なければどうしようもない。
資金がなくても頭は動いているので、自分なりに頭を動かすことで出来ることをすればいい。
その結果がここに積み上げた文章の山である。障碍をカミングアウトできる施設の職員以外の知り合いには、
そもそもこのブログがあるということを公開していないので誰にも褒められないが、
褒められてもひねくれすぎてむずがゆくなるし、誰かの賞賛とかも極論どうでもいいので、
変なことを書かなければ書いた文章をそのまま公開できるだけでもとてもありがたいものである。
今は誹謗中傷について厳しくなった世の中だけれども、別に誰かを批判したとして気分が良くなるかと問われたら、
ぶん投げた言葉のせいで自分が怯えて凹んでしまうので、とても誰かを批判する気にはならない。
それも加味して、監修のいう名の他人の目があったらほぼ確実に今のようなブログの文体にはなっていないと思う。
他人の目があれば何というかもう少し控えめな事を書いていただろうが、それが本当に書きたい事なのかはわからない。
今のままで続けられるものであれば出来る限り続けておきたいし、
最期の時くらいは誰かに種明かしして少しぐらいびっくりさせられたらと思う。