昔は一日千六百字くらいを書くことを日課にしていた時期もあったが、
今となってはそんなに書くこともなく、好きなときに好きなぶんだけ書くような状態になっている。
ただそれも昔からの積み重ねがあって書けるものであって、
文章を書くことを日課にしなければいろいろな本を読むこともなかっただろうし、
まずブログなんて始めようとも思わなかったことだろう。
昔の文章なんて思想が違いすぎて恥ずかしいのでいまさら見せるような代物でもないですが。
特に詩なんて今とても書ける状態ではない。多分書く情熱もアイデアも消え失せている。
一言で言ってしまえば「若気の至り」である。
若かったのと暗さを楽しめる余裕があったのが俗に言う中二病的な詩を量産した動機だと思っている。
ある一定の層には大受けでしたが、とても一般受けするようなものではない。
とりあえずギターを片手に作曲しようとして自分の詩を使うかと言われたら首を横に振るだろう。
そんなものを曲にすればギターから変な音が出る。
半分ぐらいノイズか不協和音になってもなんの疑問もない。前衛音楽のような何かになるだろう。
前に誰かから渡された詩に作曲したことがあったが、それでも何の抵抗もなく音がうねっていたり、
コーラスやフェイザーを多用した意味不明な音楽が出来上がったので、
間違いなく自分の詩ならためらいなくひどいことになるだろう。
なので普通の詩を書いて普通の曲を作れるって多分別世界の出来事のようなことだろう、と思いました。
閑話休題。
文章を書くことを未だに続けているのは、結局の所自分という証拠をどこかに置いておきたい、
しかし公衆の面前で晒すにはあまりにひどい文面なのでできればコソッとした位置に置きたい、
という歪んだ信念でやっているのであります。
さすがに公衆の面前に晒すのであればもうちょっと文面を考え直したり、もっと推敲したりする。
なお一度だけ「発達障害芸術文化祭」みたいな場所に文章を投稿して帰ってきたこともあります。
だけれどもなんか人の目を気にするあまり、気分的にありきたりなものになるような気がして、
それなら毒電波のまま放置できる場所を選んでおいたほうがいい、というのが、
今の行動を続けている動機なのであります。
1%くらいは芸術家を気取りたいじゃないですか(意味不明)
何回も書いているけれども下水道に放流するような気分でやれるのが一番気楽である。
間違いなく最下層に埋もれるけど、データとしてはある状態になるので。
自分が死んで活動した証拠が残っていないとかなんとも悲しいではありませんか。
たとえ精神が曲がっていようとも。