やめたいと言ってやめられない物が障碍である | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

よく格闘ものの漫画で、主人公やら敵キャラなどが身体につけている重りを外して、
本気を出すシーンを見るのだが、
ぶっちゃけ外せるものなら外したいものなのですよ。障碍も。
重りのようにその辺に捨てておけるのであればそのままにしておくだろう。

ただ、現状の自分の人格は生得的な発達が妨げられたことによるので、
外したとして何がどう変わるかは自分には解らない。
前にも書いたように一度健常者の世界、脳内構造、暗黙の了解、
その他言葉にならない言葉や精神の自分には伝わらなかった情報が、
どれだけ自分にはなかったのか、ということを知るために、
一日健常者のありのままの世界を覗いてみたいものである。

出来ないから言うんですが…ね。

健常者には見えて、自閉症スペクトラムには見えないものが、一体何なのか、
おそらく総合的に欠けている能力ばかりが見えてくるだろう。
多分そういうものなんだろうと思う。
そして健常者の感覚で人間に突っ込んで、「嗚呼人間疲れした!」と叫んで
ベッドに沈みゆくことだろう。
精神の認知は戻ったと言っても、それまで習慣的にしていたこと、
色々行動を規定したことも全てが変わるとは思えない。
そこまで行動認知の種類が変貌するとは自分には思えない。
おそらくそれは逆の立場でもきっと思うことだろう。
健常者の立場から急に自閉症圏の思考を持たされるようになって、
心の動きが見えなくなり、結果的に人からあれこれ言われてしまう。
しかし、それは別に非日常でも何でもございません。
普通に生きている広汎性発達障碍の生きているルートなのでございます。
独特の精神構造に乗れきれなかった場合、それはある意味必然的なことである。
普段抱える必要のない重りを己の身に食い込ませたのだから。

明日発達障碍の症状が良くなっているかもしれない。しかしそれは一体何の話であるか。
何の障碍部分がどれだけ変化し、何が理解出来るようになったのか。
窓を開ければ夜景が飛び込んでくるが、まあ見ている物自体は変わらないだろう、
見ているものに対してどういう観想を抱くのかは、変わっていくのだろうと思う。
その時健常者と障碍者の心の理論が前提として大きく異なることを御理解頂ければと思う。

しかし、何時出来るようになるんでしょうかね。