思えば自分は帰属心の薄い人間である | 隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私自身誰かと深い繋がりとか関係を持ちたくないと思い、そのように生活している。
別に障碍があるとかないとか思う以前からそのようであったし、
診断されてからおそらく死ぬまでこの調子である。
逆に言うと、そうでもしなければ自分の心の平衡が崩れる、のである。
一回自宅に帰ったら、なるべく人と話したくないというか、
本当に人と関わり合いになりたくない。その後は本当に自分の時間なのである。
この時間を崩すことは私自身が認めないだろう。

電話もメールもなるべくやりたくない。LINEとかその他のSNSを使いたくもない。
そもそもSNSの登録すらしていませんが。Twitter以外は。
そういう無尽蔵な広がりを見せるようなツールで自分が広まることを、
私自身が不可解なまでに恐れている。私は隠れたままでいたい。
隠れたままでいたいからこそ、このブログという閉じられた場所で文章を書きなぐっている。
コミュニケーションをとりたくないけれども、一応言うことはあるので…とは何回も書いた覚えがある。
ただ一方的に書き連ね、記憶・記録するために私はブログを用いている。
電子の海に妄言を書き連ね、放流するのである。それ以外の人と話をしたいとか、
何かを求めたいということは、忘れたことにしておく。
話をすれば自分の精神が汚染されてしまう、ということを恐れているからである。

ま、どうせ文章を残すなら多少は目に触れられる場所に置いておかないと、ね。
有象無象の書き連ねられた文章の片隅に、あるかないかわからないような感じで、
そっと沈んだように置かれることを私は望んでいる。当然この文章も。
関わることを捨てきった文章を書けるようになりたい、などと意味不明なことを言いながら、
訳の分からない文書を書く。

こんなことは一人じゃないとできないだろう。協調性とかそういう社会的要素をかなぐり捨てないと、
とても人間としての関係を保ちながらできる所業ではない。
こんな訳の分からないことを書く「ために」生きている人間もいるのである。

酒を飲んだりして誰かと愚痴をこぼしたり、理想と現実のギャップとか、
何気ない日常の話とか、そういう何気ない会話を、私は非常に縁遠いものとして見ている。
それは興味がないからである。ないものを無理に話そうとしても、
矛盾と、それからつけもしない嘘が組み合わさって収拾がつかなくなる。
私にとって興味のないものとは、微塵も興味のないものである。
それこそ文字通りに興味がないのである。
そして「興味のないこと」には煩雑な人間関係が含まれているのである。
もはやどうしようもあるまい。