有名無実のクリスマスは新嘗祭に替えるべき | 雲水・ISAのブログ

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日本は神の国
仁術師

我が国は明治の文化改悪運動以来、毎年この時期になると中身の無い馬鹿騒ぎが横行する。あの習慣は関係する信者以外には無意味なイベント。商人たちが金儲けのために大義名分として利用したのが始まり。敬虔な信者たちが行う厳粛な祭事とは別物。

そのイベントの起源である伝説は日時を特定する具体的な根拠に欠けるけれど、元々は地球の「冬至」に関するお祭りと結びついたものだと考えられている。この「冬至」は、夏至、春分、秋分などと共に地球に存在するあらゆる生命と深く関わっている。特に東洋思想における冬至は陰陽入れ替わって、再生に転じる重要な日である。この宇宙を支配する大原則は人間の及ばない力と知恵。これらの自然現象と摂理に基づいて、調整され、決められ、従ってきたのが農歴(旧暦)。

 

ところが明治に半分テロリストのような連中が政権を握り、強引に改悪してしまった。それが現在我々の使っている新暦。宇宙や神霊に対して非常に失礼な行為であるにもかかわらず、現在に至っている。そういう行為を平気で出来てしまう人は自然や宇宙を感じることができないことの証明でもある。こういう人間は宇宙、世界に害をもたらす。「天皇」の名を持ち出すけれど、とんでもない詐欺。もしも本当に神霊の子孫であれば、この大欺瞞に気付かないはずがない。つまり、気付いていても口外できない圧力があるか或いは抵抗できない状況に置かれているということである。明治に端を発し、戦後にはさらに強化された。隠された植民地化の過程で起きている異変の一つであることに気付くべき。これらの不自然で異常な状況を簡単には修正できない背景がある。

我々の政治経済活動と教育や文化活動全般を実質的に管理されているにもかかわらず、日本の元首である天皇や総理大臣すら干渉できない組織があるのだ。そして、それを許している政府(特に外務省、財務省)と司法界は同じ穴のムジナと言ってよい。終戦直後は生命や生活を脅かす圧力やリスクがあったことは間違いないけれど、それを現在まで継続させているのは異常。だから、我が国に不利益な政策、政治家が選ばれ、真実を語る人は抹殺されて来た。実質的な植民地支配であるけれど、ネットが普及する以前にこの手の発言は死活問題であった。ある程度の国際的な教養と判断力があれば誰でも気付くはずだけれど、公職追放や脅迫によって言論は統制され、危険分子は抹殺されて来た。我々はそのような問題提起をすることのできる勇敢な愛国の士を守るべきであるけれど、国民は腑抜けになってしまっている。

 

かの切腹事件を起こした憂国作家は早期に問題提起をしていたけれど、彼が当然気付いてくれるだろうと思っていた自衛隊(旧軍隊関係者)にも裏切られ、非業の死を遂げている。どうして助けずに黙殺したのだ?「裏切り」と言う表現がきついと思う人もいるかもしれない。しかし、支持をすることに多大なリスクをはらんでいた当時から半世紀も経っているのだ。その間に彼の死を懸けてまでの悲痛な思いに、少しでもこたえるような事をしたことがあっただろうか?逆説的に言えば、彼に対する裏切りと良心の呵責を心に秘めている関係者はいるはず。今の時代、その気持ちを開放するべきだと思う。

一方で一般人の中にはその真意や敬意を学ばずに単なる「右翼作家」だと片付ける単細胞も多い。そもそも、右翼(メディアの造語)と言う概念はわかっているのか?アジア主義、愛国者、チンピラ、ヤクザ、政治団体、思想家、宗教家などとの区別はできるのか?それ以前に、自分自身の立ち位置は認識しているのか?北がわからない人には東西南北の違いもわからない。その時点で日本人失格!

 

残念ながら、過半数は失格の日本人ばかりである。それは、自国の文化や歴史に対する知識は戦後の植民地支配の支障となる情報であるために、公の情報(教育、教科書など)から削除されているからなのだ。特に恐れたのが「アジア主義」と「愛国心」。これを防ぐために悪くて恐ろしいイメージのレッテルとして作られたのがいわゆる「右翼」。自分の国を守り、戦った基本の精神の源。愛国心が無くなると、国や政治に無関心となり、「今が楽しければどうでも良い」という自暴自棄的な気持ちになる。さらに心理効果が進行すると愛国の情を表すことを恥じるようになる。「日の丸」にも誇りを感じなくなるから、祝祭日に飾ることも恥じる。海外から論争を挑まれても無知ゆえに言い返すこともできなくなる。現実がその通り。日本人を弱体化するために「国を愛する気持ち」「真剣に国を考える言動」を無効化する心理作戦の一つが「自虐史観(日本の軍国主義思想が一方的に悪かった)」なのだ。マイナスイメージを持たせて自国の政治や将来を考えることから遠ざけるのである。

 

それをそのまま、何の疑問も持たずに受け身で教わって来た人たちはわからなくて当然。ここに気付くことが日本人としての覚醒の第一歩。

国民が無知である上に連中の活動はほぼ無制限であるため、犯罪行為も隠蔽することが可能。だから在日米軍の汚点は全て隠す。その為に我が国のスパイ防止法の成立を邪魔している。犯罪を起こしても日本には裁判権もない。損害賠償はなんと我が国が負担するという異常な約束までしているのである。オスプレイが何度墜落事故を起こそうが、連中は知らんふり。賠償金すら支払う義務もないので、痛くも痒くもない。これらの密約があるのに基地建設反対運動や訴訟を日本政府に対して起こしたところで茶番劇。本来ならば、密約撤廃が先。そればかりか、反対に密約を強化するような法律だけは国会で承認されてしまう。特定機密保護法がそうである。これはスパイ防止法とセットであれば正常に機能するけれど、背後にいる侵略国が機密保護の判断をしているのであれば、それは実質的な植民地支配と同じことなのである。「国の安全のため」「国の利益を守るため」というのは詐欺で、背後にある侵略者の支配と監視体制を継続させるためなのである。これを追求した良心を持つ米国人政治家や外交官が問題提起をしても軍部によって門前払いなのである。米国の軍部は本国においても政府を上回る権力を保持しているらしく、表面的な民主主義とは違った深い闇がある。この状態が続く限りあの国の暴走は続く。詳細は小生の過去ブログをご参照下さい。

 

 

極端な話、自国に不利益、危険な対象を抹殺(暗殺)することも可能。警察や検察は介入できないので、調査も行われずお蔵入りとなる。こんな状況を日本の政治家、司法界は見逃して来た。警察や司法、自衛隊も本当の正義を考えない限り、単なる侵略者の使いっ走りに成り果てるのではないか?国民は学ばず、白痴状態。本当に国や子孫のことを考える人物を見殺しにして、侵略者に操られるままになる。

話を戻すと、先日の11月23日は勤労感謝の日であった。これは元々我が国伝統の一大祭日である「新嘗祭」を新暦に無理やり合わせた結果生まれた祝祭日である。「新暦」と言う言葉も腹が立つので「偽暦」と呼ぶことにする。この起源は文書記録以前からの風習だと言われている。明治神宮の説明書きは以下の画像の通り。

 

本来は五穀豊穣を感謝し、翌年の豊穣と平安を願う祭事。古来はこの重大な神事を執り行うことができるのは神霊の子孫と称される人たちとその関係者のみ。しかし、その意義を理解して、宇宙を構成する一メンバーとして我々も感謝することは当然だと思う。盛大な行事をするのではなく、個人個人で感謝すればよい。そして、ポイントはこの神事は元々「冬至」の頃に行われていたのである。つまりクリスマスと同時期。ところが、現在はこれがすっかり忘れられ、偽暦の悪影響もあり、「新嘗祭」の存在とその意義すら知らない国民が増えている。まさに本末転倒。これほど重要な祭日をしらずに、どうして信者でもなく、内容もよくわからない舶来のイベントに騒ぐのか?我々は商人に踊らされて有名無実なバカ騒ぎに散財させられているのである。

 

いい加減に目を覚ませ!

 

商人たちも我々に無意味な散財をさせるな!伝統文化を商売にうまく結び付ければよいではないか。アイディアを欧米ばかりに頼るのは情けない気がする。チョコ祭、化け物仮装イベントも同じだ。恋人同士のお祭りが必要なら七夕にすればよい。霊界とつながる化け物イベントが欲しければ、お盆やお彼岸にすればよい。女性たちに言わせると、伝統の儀式は「可愛くない」「オシャレじゃない」そうである。自分たちでお洒落に楽しく、可愛らしくしようとする積極的な観点が抜け落ちている。そしてその商人(財界)こそ侵略者の手先である可能性が大きいことにも気付くべき。古代より商人は社会制度の下位にランクされ来たけれど、それは社会にとって害となるリスクが大きいからである。だから商売よりも上位に存在する思想、哲学、信仰によって牽制していた。つまり精神(哲学)が物質をコントロールしていた時代。コントロールを失った物欲とそこから生まれる力は弱い人間を惑わす。ところが、その魔力に魅入られた連中はこれを逆転させようと謀略を巡らし、錬金術によって、まんまと物質が精神を超える世界に切り替えてしまったのである。連中に依存しているメディアも彼らの豪勢で派手な言動を騒ぎ立て、都合の良い価値観を流布し正当化する。卑近な話をすれば、戦後の日本を立て直した大企業家で自分自身の豪勢な生活を誇示した人は少ない。それが今は、豪邸、高級外車、グルメ、宇宙旅行などをひけらかす。魂の質が違う。これにより神が嫌悪していた問題を隠蔽するような風潮と価値観を作り上げた。その結果、人間や社会の優劣を経済効率のみで論じるようになっている。物欲には限りが無いので、外に向かえば侵攻(侵略)行為になることは必然。現在のお金や武力中心の世界に変貌してしまった。今は正に神が一番嫌悪し、危険だと警鐘を鳴らしていた状況になっている。

新嘗祭は本各地の神社で行われており、周辺住民たちがお供物(新穀)を奉納する。明治神宮では毎年奉納された野菜を使って宝船が作られる。画像はネット(多摩市の農作物応援サイト)より拝借。

帆掛け船の骨組みに野菜を積んで形を作っていく。完成した状態を見ることはあっても、制作過程を見ることは関係者以外は不可能。ネットの普及によりこのような裏作業を見ることができることはありがたい。

日本の祭事で大切なことは、作業に参加すること。それによってより深いつながりが生まれる。

野菜の宝船が完成すると、こんな感じになる。

地方の神社はここまで盛大ではないけれど、儀式の意味はちゃんと継承されている。地元関係者たちが野菜類をお供えし、参列して執り行う。このような文化の継承はとても大事。儀式自体の見た目はお神輿や山車もないために地味、質素であるけれど、意味は非常に深く大きい。この張り詰めた神霊の気を感じるべき。

皮肉を言えば、派手な法被を着て、威勢よく騒いでいるだけの連中は目立ちたがりの傾向が強いので、神霊とは必ずしもリンクできていない。なぜなら、神霊がもっとも忌むものが自己顕示欲の強い人間だから。アウトプットばかりに夢中になる人間に神霊のメッセージはインプットされないのである。神様が選んだ人は自然に特別な雰囲気、存在感を持っているものなので、自ら目立とうとはしない。自分から目立ちたい、有名になりたい!と思ってきた人たちとは異なる。

 

それどころか、畏敬と感謝の念を持つべきところに、人間のエゴを持ち出すから、乱闘騒ぎになったりもする。「祭りと喧嘩は江戸の華」という言葉を良いつもりで言う人が多いけれど、それは認識不足。神様の目の前で人間の醜さ愚かさをさらけ出して、何が粋で格好いいものか?単なる目立ちたがりのヤンキーに似た発想である。

 

生死が身近であった戦乱の時代から時が経ち、平和ボケをし始めると人間は神仏を忘れ、出しゃばるようになる。これは今も同じ。

伊勢神宮における新嘗祭は静粛で荘厳なもの。一切の穢れやノイズを嫌う。

つまり、この様に地味に見えるけれど、その意義を理解している者&場所に神霊は降りていらっしゃる。そこで神と人間の会話が始まる。雅楽や舞踊も奉納されるけれど、自分の芸をひけらかす芸能とは異なる。神との対話においては人間の猥雑な自己顕示欲や自慢気な言動などは会話を邪魔するノイズなのである。出しゃばるべきではない。

(Study Hackerより)

 

元々、祭りは芸能と密接。歌謡や舞踊は呪術や巫女とも関係が深い。人間の作った言語(言霊とは違う)によらない神との会話であるとも言える。最近はアルバイトのにわか巫女さんも多いけれど、本来は神とリンクできる人は選ばれた人のみ。参列する人々も潔斎をして臨む。その人間を通して参加者全体がリンクすることができた。これが神事の奥義。清浄な波動。神や宇宙と通じている芸能にはこれがある。それを勘違いして祭事と見世物としての芸を利用して成り立っているのが現在のいわゆる芸能界、イベント屋。神とリンクしている、神様がお認めになった本物の才能も確かにあるけれど、大多数は無縁の芸であり、弊害となりがち。観光や町おこしと結びつけているところも少なくない。彼らにとって祭事は神霊とは無関係の、人集め&金儲けの手段としての催事なのである。そのような偽神事では神様を差し置いて人間たちが主役になりたがる。見て見て!俺様は凄いだろ!格好いいだろ!私は可愛いでしょ!生き物には子孫繁栄のための異性に対するアピールもあるけれど、人間はその範疇を越えた自己顕示欲(名誉欲、権力欲など)が強すぎる。これが害。

(白山神社の新嘗祭)


また、動物を狩る、捕まえる、追いかける、闘わせる、などの祭りがあるけれど、あれが神事であるとは思えない。他動物いじめを神様がお喜びになるだろうか?あれらの蛮行を「勇壮だ」と形容するようになったのは、戦乱の時代に武力(暴力)で台頭して来たチンピラたちである。現在はサムライ、武士などと格好いいイメージになっているけれど、始まりはヤンキーや暴力団に近い。そのままでは平和が訪れないことに気付いた偉人たちが長い乱世から学んだ教訓が武士道の骨子となっている。自分たちの持つ武力の裏表の危険性を熟知しているから、自制、自己コントロールに関する解決方法を神仏や禅などの哲学に求めた武将、武人も多い。そこから様々な決まりや礼儀作法が生まれた。狩猟を武士としての技術や知識を継承するための稽古、その一環としての競技会であると言うならば、まだ理解できるけれど、それを無理やり「奉納」「神事」とするのは神様に対して失礼。下品な他動物イジメを一方的に奉納して、神様がお喜びになるはずがない。そんな行為を「町興し」「村興し」と言うのは詭弁だと思う。

(寒川神社の新嘗祭)

 

話を世界に広げればオリンピックも同様。聖火をあたかも神事のようにギリシアから運ぶのは正当化するための大義名分。偽神事だから国力を見せつけ合い、商人と政財界が癒着した利権まみれのイベントと化している。スポーツ信仰者(自分も大好き)は反感を覚えるかもしれないけれど、筋肉主体の発想で世界平和は実現不可能。正確には動物と同じような単純な脳ミソであればよかったけれど、中途半端な脳を持ってしまったために余計な事を考えてしまう。それを修正するために神の叡智が必要であり、その内容を知るためには哲学的な素養が必須。スポーツで本当に世界平和を作れると言うなら国連は要らない。

(「オールアバウト」の記事より)

 

大きなノイズは感覚を麻痺させ、真実を覆い隠してしまう弊害がある。ホワイトノイズと言ってノイズの存在すら気付かせないようにするものもある。だからノイズに隠された闇がある。最近話題のプロダクション会社の問題などもその闇の一部。その表面的で華やかな部分のみを利用し、闇を見て見ぬふりをして来た業界関係者の手のひら返し的な言動と、自称被害者に対する過剰な綺麗ごと(擁護)は不自然に感じる。
 

これがわかるとお笑い、歌手、俳優、スポーツ選手,yotuber、文化人、政財界人などがいかに有名であろうとも、神霊とリンクしていない人たち(大多数)は単なるノイズの大きな見せたがり、出たがりの存在(自己顕示欲過多)に過ぎないことがわかる。ノイズが大きな人は即ち感性の鈍い人であるとも言える。五感が鈍いため、過剰な音、激しい運動、強い匂い、濃い味などを求めてしまいがち。これに対して、感性の繊細な人は自然界や宇宙の至る所に素晴らしい歌(音)、ダンス(波動)、芸術作品(自然界)を感じることができるので、高額なチケットを買ってはるばる商人の私腹を肥やすイベントに出かける必要もない(個人の楽しみは別の問題)。ところが、世間ではそのように繊細な波動を感じることができず、大きなノイズを発信する人のこともインフルエンサー(影響力のある人物)と言ってしまうことが多い。神のメッセージを理解しないノイズは大きくなると逆に害毒。刺激が強いために、起きている問題を隠したり、宇宙(神)の摂理をわからなくしてしまう。強いお酒や麻薬と似ている。上手に使えば妙薬であるけれど、間違えると毒になる。洗脳などの情報操作にも用いられる。

 

また、ノイズ人間たちは同じ波長で類は友を呼ぶ傾向がある。芸能スポーツなどで大勢が盛り上がる集団心理現象があるけれど、あれがその一形態。それが社会的な行動になると革命や運動、紛争などに形を変える。ノイズの共振である。そして侵略者のメディアはそれを利用して洗脳する。自立していないメディアはノイズ拡散の役割を担うこととなる。単に公共電波やメディアに露出する回数が多いだけのいわゆる有名人を、どうして妄信するのか?発信する内容(質)を考えるべき。質の悪いノイズの拡散は世界に害をなす。多量に放出された結果がいわゆる風評被害、デマ、洗脳、錯乱などになる。

自分で学習もせず公共電波に依存しているだけの人たちはほぼ被洗脳者と言える。被洗脳者はノイズと近い波長をもっているために共振する。現世界は被洗脳者が圧倒的多数。つまり、世界や社会構造は被洗脳者の波長(波動)に影響される。共振元の波長が正しければ、平和な世界(正調)であるけれど、間違った波長であれば乱調の世界となる。不安定な乱調の世界の中で正調を保っている人間(極少数)は止まっている(不動心)か、あるいは調子がズレている(浮いている)ように見える。従って、今の世の中がおかしいのであれば、世界を蔽っている波長(波動)が狂っているということ。これを修正するためには基調となっている波長(波動)を変えなければならないけれど、乱調が主体となっている世界において、多数決(愚衆の民主主義)は悪循環を継続させるだけで、修正は不可能。間違った悪循環から生まれる思想や理論(権威、優劣、正誤、真偽などの根拠)も同じ指向性を持っているから、その渦中にいる限り正誤の区別すらできない。だから、そこから離脱せよと一生懸命にご説明なさったのがインドの賢人であった。まず正誤を見極めてから、修正の方法を考えて実践することになる。ちなみに、波長(波動)を判別するためによく観察することを日本では「気を読む」と表現する。観察分析すること自体は非常に重要なことであるけれど、これを狭義(全体を見ない偏った指向性)で用いると、しがらみ、腐れ縁、組織内腐敗、コネ社会、村社会、忖度などにつながる。

 

私の分析と経験では洗脳被害が一番大きいのは戦争直後に子供時代を過ごした世代。洗脳教育は最初の6年間が一番念入りに厳しく行われたため(WGIP洗脳計画)、多感な時期がそれと重なった世代は、年は取っているけれど日本人ではないような人が多い。大体の目安としては、日本の伝統文化習慣思想や歴史に疎いことが特徴。幼少期に戦争体験をしているはずなので、そんなはずはないと思いがちであるけれど、現実は違う。人格形成の一番大事な時期にモロに洗脳されてしまったのである。皮肉なことに(侵略者側には都合が良いことに)ある程度裕福な家庭に多く、彼らが戦後の政財界を構成して来たのである。舶来志向で洋風の住宅に住み洋風の風俗習慣(音楽や飲食、ファッションなどの趣向)に染まっている人が多い。自国の文化のことには詳しくないけれど、海外事情には明るく外国語も話せる。日本の伝統文化や思想を「島国の貧乏人の発想」だと馬鹿にして来た。これらの人々が政治や教育の中枢にいるとすれば、その国は同じ志向性(指向性)を持った社会となることは当然。

(戦後の進駐軍によって立案された日本植民地化政策)

 

よく、昭和は素晴らしかったと言う人がいるけれど、昭和の大企業を創生した方たちはその洗脳を受ける前の世代である。そして洗脳被害の大きなブルジョア出身ではない。第一洗脳世代は現在70代から90代の人たち。昔の記憶は残っているけれど人格形成時期は洗脳期間に相当する。第二世代は生まれた時点ですでに洗脳真っ最中なので伝統的日本文化の素養すら持たない人が過半数。その子供たちは数世代に渡って物質文明に魂を侵されバブル経済を作った。カブキモノ(目立ちたがり)や成金、アウトロー的行為が格好いいと勘違いする若者が増え、道徳や伝統的な哲学が否定され、正体がまだよくわからない「資本主義経済」「民主主義」「自由」「人権」などを妄信していた。そこから家庭内&校内暴力、○○族などが登場。大学は学び舎ではなく遊園地と化した。子供のくせに身分不相応なブランド品に夢中になった。本物のヒッピーやレゲエ、ロックの精神&哲学には人間の深遠な苦悩と向上心があったけれど、日本で形だけを真似したそれとはまったく異なる。

そういう連中が平和ボケ社会を作り、私利私欲にまみれたバブル経済を経て大企業の管理職や幹部となったから日本企業は衰退したのである。実体のない数字だけの幻想経済(先物や投資などの不労所得と不相応な融資)に踊らされ、先人の作り上げた会社を乗っ取られてしまった大企業も少なくない。

 

もちろん全部がそうではないが圧倒的多数。しかし、日本は文字として記録に残される先史時代から同様の経験をしてきたようで、神霊の理から外れた場合の教訓を魂の遺伝として持っている。そこから個人が出しゃばることを控え、謙虚、謙遜、気遣いなどの発想が生まれた。これは近代まで非常に優れた自衛システムと情報分析フィルターの役目を果たしていた。それが言霊(言語)と結びついて物質と精神的の両方の防御&調整システムを構築している。だから、日本は他国のように簡単に植民地化されなかったのもこれが一因。世界中の非侵略国は自分たちの言語と文化を失ってしまったところが多い。残っている場所は侵略者たちが興味を示さなかった未開の地のみ。おそらく彼らは今でも神霊と共に生き、我々の古い形態を継承している家族、同志である。そして彼らの存在は「近代科学文明がなければ生きられない」という偽神話が嘘である証拠でもある。

 

ちなみに、気遣いは忖度とは違う。神様との関係で人間が考えるような忖度は無く、圧倒的な畏怖の念のみ。神霊の理から外れて人間同士で勝手にする気遣いを「忖度」と言う。先述したけれど、この誤った忖度の弊害が村社会、島国根性、組織の束縛や癒着や腐敗、能力と無関係の年功序列制度、悪い意味のコネ社会につながっているのである。実は忖度は人間の支配者(権力者)が合理的な支配と服従のために作った概念なのだ。同様に常識や決まり事にも同様のカラクリがある。当時の権力者は自分たちに歯向かうことができなくなるように気遣いの定義を都合よく改ざんしたものも多い。多くは神霊の理を大義名分とするけれど、よく見れば、宇宙の必然から生まれた調和や善意に基づくものと、権力者たちの恣意的都合から作られたものの区別がある。

一方でこれらの伝統的防衛システムを破壊しようと企んで来たのが近代の侵略勢力である。連中は日本の伝統文化、価値観、習慣、信仰、伝統教育、言語などを古くて間違ったものだと思わせて、自分たちの言いなりになるような教育を強制的に行って来た。日本の文化という壁を破壊するために基本の精神や哲学を破壊して来た。強固にまとまった精神文化はなかなか壊れないので「個人」の人権やら「自由」などを過剰に強調して内部崩壊を促す。お互いに思いやりや気遣いを失い、いがみ合うようになると、求心力を失い分散する。連中はこれが狙い。政治経済産業生活は本来一体のものだけれど、私利私欲を優先して全体を考えなくなると、連携していたバランスが崩壊し始める。これが日本の現状。それでもまだ壊れないので、今度は「地球(グローバル)」「国際化」「世界のため」などの概念を持ち出して、日本の連携の鎖を分断しようとしている。騙されてはいけないのは、それらは「一部勢力が考えたグローバル、国際化」であって、宇宙や自然の摂理とはかけ離れた都合の良い既得権益勢力の発想なのである。

 

日本古来の絆や言霊を壊す存在がノイズである。精神世界と関係が深い言霊を弱体化するために外来語とその概念を押し付けて浸透させる。言葉(言霊)をぞんざいに軽率に用いることは危険。正体不明の概念(外来語に多い)を不用意に取り入れるのは寄生虫や病原菌に感染するのと同じ。身近なところから親密性を装って近づき、侵入&同化する。連中は我々の栄養を見えないところで吸って肥え太り、繁殖する。

 

教科書、教師は都合の良いものだけが選ばれ、真実はうまく隠される。これらの謀略を誰かが問題提起した場合はメディアを操作して「陰謀論」「都市伝説」だという方向へ誘導し、それ以上の調査や分析をさせないままに問題をウヤムヤにし、自然消滅させる心理的効果も考え出された。我々はこんな目くらましの策略に乗らず、徹底的&客観的に追及するべき。

 

最近の例として横文字の羅列で関心を集めているSDGsやLGBTもその一つだと思う。そんなものは日本においては自然発生して融和して来た存在である。当初の欧米は日本に存在したそれらの概念を穢れた貧しい思想と習慣であると批判し、それを真に受けた無知な成金政治家たちが西洋の不自然な理屈を社会に持ち込んだのが迷治異心。それにようやく気付いたにもかかわらず、自らを最先端の思想のごとくアピールし正当化しようと騒いでいる現象なのだ。それを金儲けのチャンスだと捉えた連中がそれに便乗する。安定した社会になると金儲けは難しいから戦乱や危機感、不景気、不安を利用するのである。その経緯や歴史も知らない日本人が有難がっているのが昨今の状況。今さら特別扱いするほどのことでもない。

年中行事の中では2月チョコ贈呈祭、10月化け物仮装祭、12月西洋風偽聖人祭が三大ノイズである。この手の横文字言葉を得意げに使う連中は既に言霊を失いつつある証拠。政治家、有識者、メディアにも多い。従って、どれほどメディアが害毒ノイズを垂れ流そうとも、我々は意味不明で不快な言葉は拒絶するべき。使うべきではない。言語伝達を生業とする自負があるならば、メディア関係者もきちんと和訳するべき。和訳ができないということは、内容を正確に理解していないと言うことでもある。それすらできないマスコミ人は既に終わっている。ちなみに、現在我々の使う科学や政治経済用語のほとんどは近代に日本の知識人たちが和訳した成果である。

 

ノイズを取り去り、神の本当の叡智を知る方法は主に二種類。哲学(精神)と科学(物質)。そしてこの二つは真理に到達した時点で同体となる。別の言い方をすると、どちらかを極めると他方も自然と極まる。そして、その時に三つ目の力が与えられる。「与えられる」と言うよりも、別次元にステップアップしてしまうのだけれど、それはまるで三つ目の力のように見えるのである。そして、この第三レベルの発する情報(霊魂などの万有エネルギー)が大ノイズを淘汰駆逐する正調(正しい波動)となる。そうすると精神と物質の一見すると対比関係にあるような構造を俯瞰することができるようになるので、そのバランスを修正し調和しようとする。その動きはまるで、オセロゲームと同じようになる。

と言うのは、実は大ノイズは正調に対する乱調であり、等しく「調子」(波動)に依存しているから。つまり裏表の関係。大悪人は大善人と似ている。調子を作ることができるエネルギーの大きな集合体(その他大勢の我々一般人はその粒子の一つに過ぎず、指向性も持っていない)である点は同じ。だから、大ノイズを発する人は調子が違っているだけで、本来所有しているエネルギー自体はそれなりの力がある。自分の乱れに気付いて、正しい調子を取り戻してくれれば、この世界と宇宙に多大な貢献をできるだけの力を備えているのである。敵が味方になるのであるけれど、それがオセロの裏表(白黒)と非常によく似ている。これらは東洋哲学では陰陽、タオの発想につながる。西洋では悪魔は元々は神だったという発想。

 

このオセロゲーム盤は第三の存在に気付いた時点で登場する。第三レベルの存在に気付いた人たちにしか見ることができないゲームと言える。しかし、ある条件が整わない限り、見るだけで、参加することはできない。ちょうど現世界がそのタイミングとなっている。同様の問題提起をされている方々は世界中に散在しており、それらの言論や本人と遭遇する機会は神霊がお作りになった「ご縁」「タイミング」「運命」。それは「神様からの次のステップへ至る招待状」だと思う。そして、この招待状をもらった人はそれを仲間や同志たちに無限に配っても良いことになっている。私もかなり前にこのご招待をいただいたので、配っている最中。このブログもそのうちの一つ。

 

黒(乱調)で覆われていた世界も、正調(神の叡智)を知った途端に、次々とパタパタと裏返り、白い世界に変わるのである。何も学ばず、問題意識を持たず、適当に生きる人たちはゲーム盤上に上がれない無指向の粒子たちに相当する。それらの存在にとっては白黒の裏表はどうでも良いので、自動的に追従するのみ。責任感も存在意識もない。ゲーム盤の存在すら認識できない。選挙の時などに特定の思想を持たないけれど選挙権だけは持っている「浮動票」と同じ。都合次第で白にも黒にもなれる。安定していないからノイズの影響を受けやすい。これが大多数の民衆。自分で調整することができず(学ぼうとしないのだから当たり前)、不安定だから癒し(安心、安堵)を求める。癒しは本当の安定と、ノイズによる攪乱&錯覚や逃避(一時しのぎ)の二種類あることに注意。

 

そして、もう一つ大事な点は、オセロは自分だけ白でも(単独)相手を裏返すことはできない。味方が他にも存在して、相手を挟むことによって裏返すことができる。即ち、正調を持つ人々が同時に立ち上がり、邪悪な乱調(黒)を囲んで挟み込んでこそ勝つことができる。これこそが、救世、改世である。正調を理解した正義の戦士たちが超国家、超民族で一斉に蜂起することによって、白黒の裏返しは可能となる。間違いなく、黒い連中は白の撲滅を図るけれど、それに我々は負けてはならない。世界、宇宙を良い方向に替えるのは、白(正調)をできるだけ増やすこと。まだ白黒の区別もできず、ゲーム盤上にも上がれない魂が大多数であるけれど、まず白(正調)を知ることが大前提。現時点の白い戦士は圧倒的少数であるから、まず数を減らされないように助け、守る。それと同時進行で正調を世界に普及して白い仲間を増やすことが現実的な救世の方法である。その意味では私のブログに偶然遭遇してこの問題意識を持った時点で、すでにその人は白の戦士となるきっかけを持ったことになる。反対に敵意を持ち、黒を守ろうと思う人もいるかもしれない。そこから先は本人次第。これらの調整が不可能となった場合に神の恐怖の強制リセットが来る。

そこで問題となるのが、では一体何が「正調」だと言うこと。これは哲学や宗教でも未解決の大問題。人間としての私は無知であるけれど、私の力の背後にいる存在からのメッセージを簡単に言えば、神霊の心が比較的残っており、客観分析研究ができる環境(生活経済、文明力、自然条件など)が整っているのは日本。特に参考するべきは、平和ボケをする以前の清濁を併せて吞む経験をしていた時代。戦乱を収めた江戸の初期が今の我々には理解しやすいと教わっている(途中から平和ボケをしたので、後半は要注意。精神が弱体化して初心を忘れる教訓でもある)。また、最近は超古代の綺麗ごとや理想社会に注目する言動が多いけれど、最初からそれに焦点を絞るのは、文明格差(生活や思考の相違)が大きすぎて、最初から諦めてしまう。冷水にいきなり飛び込んだら心臓マヒを起こすのと同じ。そして、古代の支配者が作った神話とそのまま結びつけることも間違っている。支配者は侵略者であり、その末裔は偉大な前時代の文化遺産を模倣しているだけに過ぎないのである。霊性は人間の考えるような遺伝はせず、模倣は所詮コピーであり本物には成れない。コピーが本物になろうとすることが大間違いの根源なのだ。本物は黄金の宮殿に生まれ住むとは限らず、掃きだめやスラムからも生まれる。しかし、真偽を見分けることができるのは同レベル以上の存在であるので、一般人間世界では至難の業。見分けるヒントは神霊の声。教えてくれる。

 

とにかく、世直しには先に積もり積もった害毒をデトックスすることが必要。再生の前にはリセット作業が大切。これは私の治療法と全く同じ。そこを治さず綺麗ごとを論じたり、表面的な施術をしても一時的な措置に過ぎないので、また悪い状態にリバウンドしてしまう。この悪循環にハマるといわゆる不治の病、難病となる。話すと長いので、以下省略。

偽暦によって捻じ曲げられた勤労感謝の日に米国やカナダではサンクスギビングと呼ばれる感謝祭なるものが行われる。この意義は世界各地で行われる冬至の感謝祭と同じルーツを持つものであるけれど、その形態は似て非なるもの。

別名「七面鳥の祭典」とも呼ばれる通り、生き物の大量虐殺である。 伝統的な正餐のメインディッシュとなるのは、七面鳥の中に角切りにしたパンを用いた詰め物(「スタッフィング(stuffing[3]」または「ドレッシング(dressing)」と呼ばれる)や野菜、ハーブなどの詰め物を入れた大きな七面鳥の丸焼きである

五穀(特にお米)や野菜を主とする我が国とは全く異なる価値観。そして、これが挙行されている土地に元々住んでいた先住民たちとも異なる。自分たち(侵略者)の命や健康、利益が最優先であり、他の生命に対する尊厳の心は皆無。彼らの信じる存在が本当の「神」であるかどうかを疑うような光景である。本当に神様が、人間たちの欲望のために作られた、血塗られた食事をお喜びになると考えているのだろうか?おそらく、将来、これらの批判から逃れるために彼らは新たに「犠牲となった生き物たちの供養」「先住民慰霊」の祭典を作ると予想する。これも問題をうやむやにする心理作戦に過ぎない。つまり、建前として供養するけど肉食文化を継続させようとする姑息な発想。供養するくらいなら今すぐその原因となる行為を止めるべき。先住民に申し訳ないと思うなら、土地も文化も返還するべき。

 

ちなみに、日本では古くから色々な生き物の殺生塚(慰霊碑)がある。墓ではなく、この世の一切の無常(無情)な行為に対する思いの表れ。また筆塚、針塚などもある通り、物質に対しても同様の敬意と愛情を持っていた。それは、その背後に神様の存在を常に意識してきた証拠なのである。

Wikipediaによると感謝祭の歴史は以下の通り。

感謝祭は、イギリスからマサチューセッツ州プリマス植民地に移住したピルグリム・ファーザーズの最初の収穫を記念する行事であると一般的に信じられている。ピルグリムがプリマスに到着した1620年の冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、翌年、近隣に居住していたインディアンワンパノアグ族からトウモロコシなどの新大陸での作物の栽培知識の教授を得て生き延びられた。1621年の秋は、特に収穫が多かったので、ピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりであるとされる。イギリス人の入植者もワンパノアグ族も秋の収穫を祝う伝統を持っていて、この年のこの出来事は特に感謝祭と位置づけられてはいなかった。プリマス植民地で最初に祝われた1623年の感謝祭は食事会というよりもどちらかというと教会で礼拝を行って、神に感謝を捧げる宗教的な意味合いが強かった。

この説明を読むと、日本の新嘗祭に近い形態であったことがわかる。ところが、この後に彼らの子孫は飢餓に際して助けてくれた恩人である先住民を駆逐して全土を侵略すると言う暴挙に出るわけだ。どうして恩人に対してそのような裏切り行為をできるのだ?信仰と魂を失ってしまったのである。その末裔に侵略されている我が国では彼らに都合が良い話しか教わらない。しかし、先住民(インディアン)の見解は以下の通り(Wikipedia)。私もこれにはその通りだと賛同、同情する。

 

インディアン達は「感謝祭」は、この日を境に先祖達の知識や土地がヨーロッパからの移民達に奪われた、「大量虐殺の始まりの日」としている。1969年のアルカトラズ島占拠事件では、これに賛同したインディアンたちは「感謝祭の日」に合わせて数百人がアルカトラズ島に上陸した。ワンパノアグ族を中心に、ニューイングランドのインディアン部族が結成する「ニューイングランド・アメリカインディアン連合」は、「ピルグリムファーザーズ」のこの「感謝祭」にぶつけて同じ日に、「全米哀悼の日英語版」としてデモ抗議を毎年行い、喪服を着て虐殺された先祖達に祈りを捧げている。

また、感謝祭の翌日の金曜日は「アメリカインディアン遺産記念日」(American Indian Heritage Day)として、合衆国におけるアメリカ先住民の位置を認識し高めるための祝祭行事を行い、かれらの伝統文化や言語の遺産を再認識するための日になっている。

最近のロシア、中東の紛争も同様だ。どうして遠路はるばる他者に干渉し、侵略しに来るのか?その発想こそが大問題。連中はそう思わせないように、内乱を扇動し、あたかも救援のためにわざわざ駆け付けたかのように見せる。これは連中の常套手段で我が国も明治期からその影響下にある。内乱を鎮めるための支援だと偽り、大量の武器を敵味方の双方に供与して、戦わせた。その結果、国を治めることができずに迷って、間違った精神性に舵を切ったのだから、私は「迷治異心」と呼んでいる。葵のご紋章一族は欧米列強の脅威に備えていなかったから近代兵器の前におびえただけのこと。初代家康であれば必ず匹敵する防御システムを準備していたはず。ついでに八月十五日は「植民地潜在支配開始の日」と呼ぶことに決めた。

 

ちなみに、最近は援助友好を隠れ蓑に、返済が到底不可能な融資を持ち掛ける手法が国際的に流行している。これは武力を大っぴらに使えなくなった国際情勢に対応した新しい侵略方法である。大規模な鉄道、電力、通信などのインフラ建設を融資とセットで持ち掛け、返済が不可能となると、その代わりに土地や権益を強奪する。その策略に引っかかる側は目先の利益に渡りに船とばかりに飛びついてしまうのである。彼らが狙うのは港湾、天然資源の存在するエリア。発展途上のアフリカがターゲットとなっているけれど、日本も危うい。経営不振&負債を抱えている企業や自治体、不動産が狙われている。ウチが肩代わりしてあげますよ!もっと人生を楽しくしましょうよ!有効に資産活用しては如何ですか?などなど。このままでは合法的に国土が侵略される。

 

この点についてはかなり前から関係機関に問題提起をして来たけれど、政府は全く動かない。つまり、危機感の欠如と、それを妨害する&手引きをする裏切り者がいる証拠である。いわゆる獅子身中の虫であるけれど、これらを駆除しない限り、我が国は虫食い状態になることは必定。

(アフリカの輸入統計・ジェトロ)

 

平和ボケで世界情勢も自国の歴史文化すらも知らない人たちはいい加減に目を覚ますべき。よく「私は歴史が嫌いだ、関心がない」「私はそれほど頭も良くないし、一般人だから・・・」「今が楽しければいい」「もう年だから先は長くないし・・・」などと言う人がいるけれど、

 

だから何?

 

そのままでいいわけ?自分のことばかりで、子供たちの将来のことは考えて上げないわけ?それじゃあ何も変わらないし、変えられない。

 

一方で若い人たちは「どうせ選挙に行っても何も変わらない」「高望みはしないから、ほどほどに今が楽しければ良い」。学習をしないから日本が今でもほぼ植民地同然の状態であり、政治が機能していない理由にも気付かない。改ざんされた歴史教科書や、嘘つき政治家たちに抗議することもなく、選挙もいかず、選挙以外の具体的行動もせず、一方的に洗脳され続け、諦めるだけ。

 

だから何?それで、何ができるの?

 

本当に日本のことを考えている政治家は消され、芸能人まがいの見た目とウケ狙いの言動だけで頭が空っぽの操り人形が選ばれるようにできている。君たちが変えない限り、その悪循環は継続する。そして侵略者たちは我々の内部に隠れ潜み続け、寄生虫のように栄養分を吸う。せっかく君たちが働いて収めた血税は、連中と洗脳された自虐史観をそのままに放置して来た昭和生まれの老害高齢者たちに喰いつくされるのである。彼らの大多数は侵略者たちに飴と鞭で脅され、もはや更生して、社会を直す力を失っている。無知で勉強不足、私利私欲だけの老人たちは、国の将来も考えずに、税金だけでなく、代々受け継がれて来た国土や会社、知識、技術までも平気で海外資本や外国人に売り渡してしまっているのだぞ。自然豊かな山林、水源地、田畑は君たちのものではなくなりつつある。おかしな農政により農作物の自給率はどんどん減少し、肥えていた大地や田畑は荒れ地と化している。こんな状況で「新嘗祭」が行えること自体が先祖や日本の神々に対する冒涜、無礼、恥である。

 

それでいいのか?

 

このまま、消極的なだけで、何も行動を起こさず、将来の君たちに何が残されると考えているのだろうか?将来住むところも、食べるものも全て失うことは間違いない。これを誰が止めるのだ?いつか誰か(平和ボケの大人たち)が止めてくれるなどと、他人に依存して甘えている限り、何も変わらないよ。そして変えるタイミングは今が最後のチャンス。それは歴史の事実と裏事情を知る人が少数ながらまだ生存しているから。これは君たちの最後の生命線と言っても過言ではない。失うと、過去の素晴らしい遺産と将来のリンクが切れてしまう。身近にいるなら、大切に接し、有益な知識と情報を引き出すべき。そこから対策を導くのだ。

同時に老害となっている非日本人は淘汰するべき。日本人としての中身(質)は年齢、肩書(キャリア)、地位(家柄血統)とは必ずしも比例しない。しかし、権力者や狡猾な大人連中は賢明な人間に気付かれるリスクに備えて、巧妙な保険(縛り)を考案した。それが実質の伴わない年功身分序列社会、○○崇拝、○○制度、〇孝行、様々なタブー禁忌などである。これは保身&支配のためにはとても便利な概念であるから権力者は古来から治世、組織支配に採用して来た。〇教、○○学などがその代表。「道徳」という大義名分を持ち出し、背後には神霊と関係があるように見せかけて、自分たち(年長者、親)に抵抗できないように教育してしまうのである。必要な内容と混在しているし、状況が時代とともに変化しているので、判別が非常に難しい。また、裏に実在する邪悪な年長者や毒親(子供の可能性奪う)などは言及されていないので、世界にのさばり害をばらまき続けることになる。それらは子々孫々の負の遺産となり、後輩や子孫の可能性を潰し、神霊の正調世界を壊している事実もある。そんなものは真の「道徳」「神様」ではない!宇宙の害毒は淘汰駆逐するべき。のさばらせて、好き勝手をさせてはならない。

 

念のため、くれぐれも「淘汰」「駆逐」の意味を安直に誤解しないように。「若気の至り」と言う通り、若いエネルギーは道理を軽視して暴走するリスクも大きい。その時に頼れるのが、先述した歴史や文化に精通した賢明な年寄りたち。国や子孫のことをちゃんと考えている大人たちは残念ながら圧倒的少数であるけれど、君たち若者がその気になれば必ず助けてくれる。私も微力ながら当然その一人になるつもり。そして、これからの世代はオセロの白の戦士をどんどん増やすべき。少数精鋭の白い戦士部隊で黒い烏合の衆世界を変えるのだ。お化け仮装祭や偽聖人祭で都会に繰り出す時間とエネルギーがあるなら、ヤル気を見せて欲しいものだよ。亡国メディアの洗脳と事実を隠蔽する攪乱戦略に乗ってはいけない。

 

一方では親や大人のせいにするばかりで、自分自身は何も学ばず、具体的行動もせず、愚痴をこぼして自暴自棄になるだけの若者は間違いなく次の世代の老害となる。すでになりかけている。

卑近な例を挙げれば、一部の軽薄な若者たちによって子供たちが大好きだった回転寿司の楽しみが奪われた。実物を見て感じて選ぶことはできず、写真の乗ったお皿が回って来るばかり。あれではメニューの写真を見るのと同じである。不要な設備投資をしたから値段も上がった。

 

過保護で自己中心的な苦情を言う大人が増えたから、海や山の遊び場には「立入禁止」の札がかけられる。無節操にバカ騒ぎをして、ゴミを持ち帰らずに汚せば美しい自然(海岸、キャンプ場、山)は利用できなくなる。日本の常識を無視する外国人も増えている。こうして、次の世代(子供たち)の遊び&冒険する機会と場所はどんどんなくなっている。

こういう悪循環の方向を変えないと、世界は悪化するばかり。世界の大部分はそうなっている。凶悪事件が増えると法律は強化されて差別も生まれる。正しい精神哲学(霊性)を教える人がいなくなり、自浄作用を失なうと世界はどんどん汚れていく。例えが飛ぶけれど、ある自動車メーカーの創始者は汚れにすぐ気づき、事故などの問題を直ぐ修正することができるように、わざと真っ白な作業着を着せることにした。普通なら汚れても気にならないように濃い色のものを着ることが多いのだけれど、彼は逆転の発想をした。世界や社会も汚れを放っておくと二次災害を生む。また、モノ作りの初心の謙虚な態度を忘れないために幹部社員たちは率先してトイレ掃除をする。これは伝統的な日本の精神哲学が受け継がれている良い例だと思うし、昭和の有名企業には似たような概念が共通している。それが愛社精神にもつながり、高度経済成長を成し遂げた。愛社精神は愛国精神の小型版である。企業規模に関わらず、自分の会社、家族、社員を愛する経営者と社員たちの絆は強い。これが日本社会の基盤であった。

 

反対の侵略者の立場から見ると、この絆と哲学こそが植民地化の最大の邪魔者であるから、絆を強化している歴史や情報、思想をことごとく潰そうとして来たわけだ。教科書から神話、英雄偉人物語、道徳などの内容が消されて、単なる年代と記録の羅列になった。これでは自国の文化や歴史に関心がなくなる。あんなクソ面白くもないものを受験試験に使う文科省や教育者たちはそれを自覚していないのか?右翼、軍国主義、ファシズム、専制政治などのマイナスイメージを作り上げて、それらが「あなた達の自由や権利を邪魔する古い封建主義的な思想なのだ」と教えて来た。これにより、日本人の絆はバラバラに分断する危機に直面しているのが現代。

実際に戦時中のような特殊な状況では滅私奉公のような束縛や不自由は存在した。また封建的習慣の中には「余計なお世話」的な過剰な干渉もある。村や近所のお節介年長者、戦時中の警察官などが典型的な例。地方では今も残っていることがある。その原因はやはり教養レベル。戦時中は優秀な人材は最前線に赴き、残されたのは老人女子供とレベルの低い公務員が多かった。それらの公務員(軍部関係者、警察官など)は教養に限界があり臨機応変な思考と対応ができないから、現代のマニュアル化して考えることができないファーストフードの店員と同じ。しかし、公務としての権力だけは与えられていたから弊害を生んだ。これは腐敗した国家に共通する現象。当時の子供たちはこの時の悪い印象が強いから、警察官をとても恐れ嫌っていた。侵略者である米軍兵士たちにギブミーチョコレートと言って懐いたのはこの反動もある。

 

よく、教養レベルを生まれや育ちと結びつけて言い訳にする人が多いけれど、言い訳できるのは遅くとも成人前後ではないだろうか。生まれたばかりで教養のある人など存在しない。受け身である限り恵まれた環境で育っても本物の教養は身につかない。逆にスラムや劣悪な家庭に育っても教養のある人はいる。感性、観察力、向学心、努力、哲学、情報などの集大成だと言えるけれど、得意不得意による分野の違いもある。万能な人間などほぼいないので、助け合って知恵を補完するべきなのだろう。

現状もマニュアル化した公務員が多いのではないか?また、憂慮するべきは、また非常事態になった場合はそれらの不適格な公務員が権力を持つことになること。そういう連中は将来のためにも排除しておくべき。AIなども活用して質と効率を上げ、人材不足であれば給与を上げれば良い。その代わり、不良人材は排除しておくべき。だから、古代の社会制度では、頂点には思想、哲学に精通した霊的レベルの高い指導者がいるべきだとされているのである。その下であるべき王(支配者)、武力(軍)やお金(財界)が上になろうとするからバランスが崩れる。精神性が伴わない人間に財力と暴力を与えれば戦乱を招くのは当然。戦後に教わって来た「政教分離」の発生起源は腐敗した宗教組織による干渉を避ける為であったかもしれないけれど、本来、政治には高尚な精神が必須である。神と共に生きていた古代は政教同一なのだ。


財布を落としても交番に届くのがこれまでの日本のはずだけれど、逆に盗まれるような社会になったら、人々の良心や信頼関係は失われる。誰かがタバコの吸い殻やゴミを投げ捨てているからと言って、自分も真似をしたら町は汚れる。道具類を満載したワンボックスカーで移動することが多い「職〇」と分類される業界の人たちによく見られる行為。自覚せずに当たり前に行っている時点で道徳観念が欠如していることは明らか。自分の悪行は社会を悪化させ、次の世代に悪影響を与えることに気付くべき。昨今は一様に「差別するな」と教えるけれど、差別(区別)は使い方によっては教育でもある。自業自得の原理は教えるべき。悪行&悪人は差別されるべきものなのだ。悪徳政財界人、社会に有害な組織、不正行為を働いた人間や企業、迷惑行為をする人間、品性の下劣な国などを良い意味でイジメ、差別することによって連中が居心地の悪い環境を作れば、生活や経営が困難となり、駆除することができる。付き合わず、話さず、物も売らない買わない・・・など、江戸時代の村八分制度的なアイディアが参考になる。ただし、間違った状態の多数決による村八分行為は誤った差別の悪循環を生むので要注意。例えば、情やしがらみによる「忖度(圧力)」である。これによって正しい言動は潰され、癒着、腐敗、戦争などが導かれてしまうことがある。

現実に企業の不正行為、詐欺などの犯罪が増えると、法律は厳格化されて住みにくい社会となる。日本の許認可制度は有資格者による申告制が基本であるため、有資格者が背任行為をすれば信頼基盤が根底から破壊される。だから有資格者の犯罪は厳罰化が望ましい。

 

実はここにもカラクリがあり、予防としての厳罰を作らず、わざと犯罪を犯させて、それを口実に民衆を差別して支配する方法もある。治世の矛盾や問題点をカモフラージュする存在が欧米のスラムと被差別民の存在。人権擁護運動を行うように見せかけて、抜本的な解決をしない。それは本当の抜本的解決は自分たち(政財界の既得権益者たち)に損になるからなのだ。

日本も同様の現象が起きつつある。ネット上の詐欺行為や若者の犯罪行為、企業や組織の不正行為など、日本の宝である「性善説社会」を侵す行為が増えている。私が経験(接触)して来た犯罪者(悪人)が一番恐れ、有効だと言うのは厳罰化であるけれど、警察も政府も対応が甘いまま。その気になればできるはずなのにしないのはなぜか?これを許しておけば日本もスラム化する。犯罪者は罰則を考えた損得勘定で行動するので、平和ボケな綺麗ごとは甘やかしてつけ込む隙を与えるだけ。性善説社会を守るリスク管理は正反対の「性悪説」的思考となることも知っておくべき。陰陽清濁を知ってこそ、正道がわかる。

 

そういう中で、唯一「性善説世界」を細々ながらも維持して来たのが我が国であることを再認識しなければいけない。公衆トイレに「綺麗に使ってくれてありがとうございます」、車の後部ガラスに「子供が乗っています」「お先にどうぞ」などのシールを貼る、気遣いと思いやりの精神こそが宝物なのだ。古来より「正直者は馬鹿を見ない」社会を理想として来たのである。それを、正直者が馬鹿を見る(この言葉が生まれた時が問題発生の時期)時代になってはいけない。

 

残された時は少ない。