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 25日土曜日、恒例のすずめの楽幸(うたごえは、今回から初の案内状なしで行われ、若干少なめではあったが、本当に好きな人たちだけが自らの意志でこうして足を運んで下さる楽しい雰囲気の中で滞りなく定刻の8時には終了。出し物は、ひじきと枝豆の混ぜご飯と、畑で採れたキュウリとナスとミョウガの塩もみ漬け物。ちょっきり完食。第一部の最後は「


   

京ナイトクラブ」。前の週、土ッちゃんの一周忌追悼会をしたのだが、そのとき奥さん曰く「お父ちゃん、東京ナイトクラブも大好きで、松尾和子とフランク永井のファンだったの」と聞いていたので、常連さんの奥さんのためにこの曲を入れて在りし日の彼を偲んだ。第二部。私のコメント。戦後70年という大きな節目の年です。悲惨な戦争体験が時代と共に風化さ


   


れつつありますが、今も現実に世界中でテロや戦争が起きています。その犠牲者は常に若者や一般市民の弱者たちばかりです。いつ自分の子供や孫たちが借り出されるか・・・・そんな不安は一掃しなければなりません。大きな事は出来ませんが、せめて私たちは心の底から歌を唄って平和を願いましょう。祈りは、時空を越えて瞬時にこの大宇宙を旋回す



   

ると言います。理論物理学の世界では、それが実証されつつありますが、昔の人たちはそのことを魂の世界で感じ取っていたようですね。「想いは物質化する」・・・。梅原司平さんの「命の花」のDVD鑑賞。1036人の若き男たちが海の藻くずとなって消えていった情景を感性込めて歌い上げる司平さんの優れた音楽性に心打たれる。「戦争を唱える人が真っ先に“私が行ってきます”と言ってからにして欲しいですね」の声が・・・「ホントだ、ホントだ」。

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さあ、果たして今日はどうかな??」と思っていたら、3時開演の前2時半には既に6名の方々がお出ましに。何たって初の試みの「3時~8時まで」の長丁場だ。結局、延長戦の9時で「ではまたの機会に」と渋々打ち切りに。ワンコイン有料入場者30。その中に、元衆議院議員のきいたかしさんや中村市議も。「宗教イコールお金」と思っていた中村市議は、



今日は本当に素晴らしいお話を伺えて胸のつかえが取れました」と、お二人に深々とお辞儀をして別れた。長時間対策として、田中省三さんの竹バイオリンの演奏に拍手喝采、アンコール。また髙橋一郎先生のアコーディオンの懐メロソロ演奏に拍手喝采、アンコール。川﨑君が梅原司平さんの「人として」「愛ある街で」のCDを聴いてもらって、皆さんに司平



さんのベスト曲CDを全員にプレゼント。彼はもう既に100枚は配っているだろう。有料だから出費も相当なものだ。私の代わりを彼が一心にやってくれている。司平さんの曲を聴いて涙する人が多いので、それでまた喜んでやっている。まさに布施行であり菩薩行の実践ジャーだ。自らも在家僧侶古田さんが、「久しぶりに本当のお坊さんに出会いました。




今日のお二人こそ仏教を伝える真の僧侶です。感謝します」と。古田さんのすごいところは、ほとんどの宗教を勉強していて、実に詳しいが決して威張らない。その方からのお墨付きだから本物である。渡辺晃司日蓮宗・浄泉寺副住職。平賀ゆう山臨済宗大徳寺派興聖禅寺和尚。平賀ゆう山さんは宗像市から来て下さった。余りにも内容が濃くて、範囲が広すぎ紙面を埋めることができないが追々綴っていこう。お二方、そしてご来場の皆様に感謝です。

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ツバメちゃんが落っこちた理由が分かった。三羽だと思っていたが四羽だったようで、一番弱い雛が、みんなが大きくなるにつれ巣が窮屈になってはみ出されて墜落したのだろう。生存競争は激しくもあり厳しい。これが現実である。・・・ところで、またもやシンクロが起きた。一昨日だったか、「こんなに行き詰まった社会を克服できるのは一人さんくらいしかいな



いだろうから、一人さんが政治家になってくれたらいいのになぁ。彼の能力がすぐさま発揮できるのは東京都知事かな・・」とふと想いが浮かんだ。ところがどうだろう・・・頂いたCDを掃除をしながら聞いていた。「え、えぇ??」。我が耳を疑った。「実は私、若い頃政治家になりたかったの。だってさ、ちょっと真剣に考えれば何でも簡単に解決しちゃうの。たとえばさ



昔、国鉄の電車はもの凄く混んでいたの。(今も変わらない)でもさ、国鉄総裁が、この満員電車に乗れば直ぐ解決の方法を考えるよね。政治家も毎日、満員電車で通勤するといいのよ。でもしないでしょ。他人事だから考えないのね」。「それでね、俺、政治家になろうと思ったの。でも、そのときちょっと年齢が足りなかったの。またその次もちょっと足りなかったの。で、神様は、“お



前はやっぱり商人になれ”と言うことかなと思っちゃったの」(被選挙権、衆議院は25才。参議院は30才。)一人さんだったらきっと日本国の根本療法をしてくれること間違いない。

そこで、昨日は、その根本療法の施術を受けるべく65日以来雨の中、新田原の手嶋整骨院へ行ってきた。「はい、ヤマシタさん、これご覧下さい。前回はこのように大きく曲がっていましたが今日はちゃんと真っ直ぐです。大丈夫ですよ。今日は、お風呂にも入っていいし、お酒も飲んでいいですよ。ただ無理はしないようにね」。この一言で随分安心しますよね。感謝。




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 前日までチッチチッチと鳴いていたツバメちゃんが、昨日の朝、玄関の前になにやらひからびたものが落ちている。目を凝らしてみると巣のツバメの雛だ。どうして落ちたのか??落ちる運命にあったのか??かわいそうに、一所懸命餌をねだり大空に羽ばたくようになるまで生きようとしていたのに・・・人間とて同じだ。いつどこでどうなるやら一寸先は全



く見えない。こうして生かされ生きている事のこの「今」に感謝しなければ。夕方、家内から電話がはいる。「ちょっと来て・・」。町内の電気屋さんの前で戸畑祇園の子供御輿の少年たちが笛と太鼓を叩いて門出の儀式をしている。なかなか訓練されていて一糸乱れぬ演技に、ついついこちらもリズムに合わせて小躍りしている。太鼓を叩いている坊やはまだ5と言うから驚きだ。なかなかのものである。将来が楽しみだ。いい子になっておくれよ・・・



昨日の続き・・・「そんな櫛は作れねぇ」と職人から断られた。「日本一になるためにはその櫛が必要なんです」と食い下がるががんとして首を縦に振らない。三度目の電話では1時間以上掛かって説得した。業を煮やした田中さんは、「あんたが日本一の櫛職人と言うから頼んでいるんだ。死ぬ気で日本一を追いかけている客の櫛一本作れないのか」と捨て台詞を吐いて電話を切った。数日後、「あんたの思い通り作れるか分からないがやってみる」と電



話が掛かる。思い通りの櫛ができたのは4本目であった。そしてその半年後日本一の悲願を達成37才だった。その後ある講習会でその職人の娘さんと偶然で出会う。「父は先頃亡くなりました」と。あの長い電話の後「俺は日本一の職人だと自負していたが、歳をとるにつれ楽を選び、普通の櫛ばかり作っていた。あの男の言葉で目が覚めた。意地にかけても一世一代の櫛を作ってみせる」と話し、彼が日本一になったとき、「もう思い残すことはない。職人の誇りを持って死んでいける」と話していたという。田中さんはその場で男泣きに泣いた。




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 少し儲かったら望遠デジカメを買おう。店のテントの中の上にツバメちゃんが巣を作っているが、バカちょんデジカメではよく写らない。いつも悔しい思いがしている。今年二度目のツバメちゃんが孵化して三羽が黄色いクチバシでチッチチッチと騒いでいる。親が飛んできたらその勢いは更にエスカレートする。もうすぐ飛び立っていくのだろうが・・・



みやざき中央新聞76日付け社説に、すごい男の記事に目を奪われる。理美容世界選手権大会で世界一になった男のドラマだ。1992年、3部門すべて個人優勝、団体戦でも金メダルを獲得。この快挙は後にも先にも彼ただ一人である伝説の理容師だ。その名は田中トシオその人である。現在69才。家庭の事情で中卒後理容学校へ通う。腕は不器用でひげそりのと



きよくお客の顔を切ったという。「好きでもない仕事を親から押しつけられた」といやいや仕事をしていたが、ある時、「もう逃げるのはよそう。この仕事を好きになって一流を目指そう」と決意したのが19才。技能を磨くためにコンテストに挑戦。そこそこの成績は収めるが日本一のハードルは高かった。そこで、夜9時に閉店後から訓練が始まる。モデルを相手に



稽古。一人二人三人。3人目は12時から。いつも寝るのは午前23時。過労が重なりドクターストップ。それでもモデル一人に絞り9時から12時まで毎日稽古を続けた。決してそのノルマは変えなかった。道具にもこだわった。日本一の櫛職人22目の櫛を注文した。一般の櫛は10目ほど。プロの理容師が使っている一番薄いのでも18目が限界と言われている。22目の超薄歯の櫛など常識外れそのものだった。・・・つづく




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 金曜日、青山先生が久しぶりに店に寄られ、大好きな健康ジュースを飲んでいただきながら、募る話で盛り上がり2時間ほど話し込んだ。「ちょっと脈を診てあげよう」と両手首付近、両足甲の指の付け根付近、そして両ムコウズネ付近を押さえながら「痛みは?、10のうちのどのくらい?」・・・。「私の経験からいくと50才前半ですね。4万人くらい診てきているので


ほとんど狂いないですね」「ホォー、そりゃあ嬉しいですね。若返った気がします」。青山先生は、50を過ぎて目を患い、鍼灸、マッサージの仕事をされているが極めて積極人間で、あらゆる知識も豊富で弁も立ちいつも教えられることばかりだ。ありがたいね。土ッちゃんの分も長生きして青山先生のように人様のお役に立たねば・・・。で、次の日の土曜日6時



から、その土ッちゃんの一周忌。総勢12名、縁のある人だけの追悼会Café昭和の時代で。会費1000縁+一品持ち寄り。それぞれ手作りの料理など有り余るほど。想い出の写真やビデオを見ながら在りし日を偲んだ。丁度祇園さんの最中で、はっぴ姿の原田ひろし県議も駆けつけてくれ共に献杯の盃を交わした。4年前に堀木先生の新事務所でお助けマンの会



をしたときのビデオが、たまたまというのか必然というのか、中井さんと土ッちゃんが真横に並んで写っている。87日に土ッちゃんが天国に逝き、丸4ヶ月後の127日に中井さんが急逝したこんな事ってあるの??絶対に忘れられない日である。最後に、土ッちゃんのふるさとの歌、「五木の子守歌」そして、彼の好きだったサブちゃんの「風雪流れ旅」「博多の人」をみんなで歌った。「群青」は練習したがダメで谷村新司のテープを流した。

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3052号 

15日の続き・・・安藤先生は「教師として何ができるか」・・・そして、勝弘くんの折れそうな手を握って自分の頬に手を当て、勝弘君の手を自分の頬に当て、勝弘君の耳元に口を近づけ、「勝弘君、安藤先生だよ」と挨拶をした。医師から「耳は全く聞こえない」と聞いてはいたが、毎日毎日10分、20分と時間を割いては勝弘君の部屋を訪れ、このようにして声



を掛け続けた。その日課は一日も欠かさなかった。1ヶ月経っても2ヶ月経っても何の反応もなかった。ところが、3ヶ月目に入ろうとした頃、いつものように声を掛けると勝弘君はかすかに笑った。蒼白く、何の表情もなかった顔が、ほんの一瞬動いた。唇と頬が確かに動いた。それからは、自ら全く動くことができなかった勝弘君が、先生が介助すると寝




返りが打てるようになった。そうなるまで2年と4ヶ月の歳月を要した。先のブランコの様子は、勝弘君への教育が始まって6年と11ヶ月目のことである。これだけの期間も根気よく毎日毎日我が子にでもできないことを一介の教師の深い愛情によって奇跡が起きるのだ。人間って本当にすごいなぁと思う。そして、寝たきりだった彼が胸にリボンの徽章を




付けて、両手で卒業証書の入った紙筒をにぎっている姿がそこにあった。ブランコから一ヶ月後、彼は小学部を目出度く卒業したのである。もしも、勝弘少年が安藤先生と出会うことがなかったならば、彼は一生涯、寿命の尽きるまで動物同様の姿で、人間にだけ与えられた特権の「笑う」ことすら知らないまま生涯を終えるだろう。人間の深い愛、崇高なる愛に強い感動を覚える。そして出会いによって人生が変わる。。これもすべて天の配剤であろう。

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3051号 

 とうとう自民公明両党安保法案を強行採決してしまった。奇しくも815日終戦記念日の一ヶ月前の715日。何かしらきな臭い匂いから、本物の煙幕の中に国民が晒される羽目になりそうだ。その昔、岸信介が安保法案を採決したときには、池田勇人や三木武夫など同じ自民党内にでも身体を張って阻止しようとした良識派が多数いた。しかし、悲し



いかな今の与党には誰一人として口を開く人間がいない。オリンピックドームこの法案も決めたのもやはり政治家である。また阻止できなかったのも政治家である。「国民のレベルが政治家のレベル」とはよく言ったものだ。如何ともし難い事実が永年横たわっている。21世紀は「心の時代」とか「魂の時代」などと言われて久しいが、21世紀に入って既に元服



を迎えている。大人になる歳だ。自立する歳だ。自分で考え自分で行動する。お任せ民主主義では知らぬ間にいいようにされてしまい、結局泣きを見るのは常なる弱者であると言うことを心しなければ問題はいつまで経っても解決しない。だから、みやちゅう新聞をしっかり読んで、魂のぶつかり合いの中から生きる力を自分で育てていくことが大事になって




くる。これは老若男女に拘わらず、等しく人間としての尊厳を守るためにも大事なことだと思っている。微力ながら命のある限りそう叫び続けていく。一人でも二人でも呼応して下さる人がいれば共に感激し共に涙を流し生命力を高めていこう。次の世代のためにも我々にはその責務がある。人間としての当然の義務である。それを全うしない限り尊厳を持って死を迎えることは出来ないような気がする。・・昨日の続きが書けなくなった・・・・


3050

 昨日、田川から宮崎さんが採りたてのナス、ピーマン、インゲン豆、トマトを持ってきて下さった。原産地京都の賀茂ナスも見事な光沢を放っていた。完全無農薬栽培だから安心して頂ける。その代わり手入れが大変で虫との戦いでもある。本当に農作業は大変だ。愛情、情熱、根気がなければ出来ない仕事である。昔からお百姓さんが、度重なる災害にもめげずに長 



い間コツコツと続けてきた遺伝子が今の日本人に受け継がれていると言うことを決して忘れてはいけないと思う。日本人の「勤勉」はここから育ったものであろう。西洋の狩猟型とは大きく異なる。そこには「」というものが極めて重要になってくる。この「勤勉」と「」があって初めて人々が平穏に暮らしてゆけることを先人たちは身を以て知ってい



た。この根気と愛情によって一人の青年が人間として復活できた物語がある。みやざき中央新聞615日付け(2605号)の社説にこう書かれている。坊主頭の少年が満面笑みを浮かべてブランコに乗っている写真がある。恐らく16才の頃の写真であろう。しかし、この主人公の勝弘君は重い脳性麻痺で、しかも両眼球形成不全症で片眼には瞳孔がなかった。




さらに高度の難聴でどんな音にも反応せず、言葉も発することが出来なかった。そして歩行不能という五重の障害を一身に背負ってこの世に生まれてきた。安藤哲夫先生が、この養護学校の病棟に来たとき、彼は93ヶ月。毛布にくるまれてベッドの上に置かれていて、「人間とは思えなかった」と思ったという。担当医からは「耳は全く聞こえません」と言われていた。安藤先生は、「教師として何が出来るのだろうか?」と悩んだ。・・・つづく



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 世の中には本当にすごい人たちがごまんといる。しかし、マスコミでは朝から晩まで、やれ誰々が人を殺したとか殺されたとかマイナスのニュースが垂れ流され、事も大げさに一部始終をさらけ出して報じられるが故に、多くの国民は「」に対してもマンネリ化されてしまっている。あたかもこの国には未来がないように思われている。しかし、いつも言



っていることだが、この世の中には善人の方が圧倒的に多いことは間違いない。実は善人で溢れかえっているのである。小善、大善は別としてほとんどの人たちはまじめでコツコツ努力している。マイナスのニュースで錯覚しているだけだが、そうでない、一人でも多くの日本人が(否、世界の人たちが)心豊かに暮らして欲しいと念じながら取材を続けて25年にな



る、日本の端、九州の隅っこの宮崎にみやざき中央新聞という素晴らしい新聞社がある。ほとんどが口コミで広がっていって、日本全国はおろか、世界中で読まれている新聞である。私は、この新聞が百万部になったら、恐らく政治家がいなくても日本は立派に立ち直ると思っている。むしろ政治家がこの日本をダメにしていて、今以て無駄な論争に明け暮



れている。オリンピックのドームにしても、誰が見てもとんでもない金額、その後のメンテナンスは一体どうする???。誰も考えていないのか??・・。しかし、決めたのは政治家である。どういう事???。日本の常識を取り戻すのは、市井で汗水流して頑張っている一般市民の力である。想いであり、心である。生き方である。このような生き方が見本となって人々の心を変えていく。みやざき中央新聞にはその使命が託されていると思う・・・