再再掲・北杜夫様から斎藤茂吉様へ・・・面白すぎる茂吉様 | 時は止まる君は美しい

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巡りあった美しい人達の記憶を重ねます・・・
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2020年2月25日

再掲記事が、昨日の現在泥沼状態からのアクセス?記事だったので、

こちらも同じくらいアクセス頂いておりましたので再掲。

もっとずっと面白い恋文とか公表されちゃってますし~。

繋がりあると言えばある?

斎藤茂吉大先生の「あちゃああああ」ありの記事でございます。

2023年7月3日

 

 

 

時代に縛られ切らない己を貫く生活を女性が出来たのって、

やはり財力がないと難しかったでしょうね・・・

 

 

斎藤茂吉先生資料本散逸

ゴシップは面白い???

 

昨日も昨日、父母のお気に入りの方々を記事で書いたその日、

やまぶきさまが、北杜夫様についての記事をアップなさいました。

みどりも、若い頃夢中で拝読しました。

 

 

 

鬱の時のマンボウ先生。

 

 

どくとるマンボウシリーズや『怪盗ジバコ』等々から『楡家の人々』まで。

 

 

 

でも、あの頃短歌はほぼ読んでいないのと、

家庭内で父と私が同じものを読むと、面倒ごとが起きる・・・

という現実があり、父が愛し、山ほど、全集・研究所等を集めていた、

お父上・斎藤茂吉様に関しては、完全スルーでした。

 

 

 

実家の整理の時、ほとんどを手放しているのが、悔やまれましたわ。

『赤光』すら手放してる。

斎藤茂太様、好みのタイプだったこともあり、お書きになられた、

『茂吉の体臭』あたりの、数冊のみ現存。

 

 

その他、多少の資料は持ってきてあって、読んでみようかな♪

 

みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる 

 

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

 

我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ

 

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

 

灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり

『赤光』より

 

ここら辺が、学校で習った茂吉先生のイメージ。

そこへもってきて、Wikipedia様が、いきなり ↓ こんなこんなを。

 

「非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。

その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった。」

 

「粘着性気質で、ウイーン滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、

あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」と独り言を言いながら

物陰から一時間近くも覗いていた。」

 

「留学時代ミュンヘンでエミール・クレペリンに握手を求めて

拒絶されたことを晩年まで恨みに思い、「毛唐め!」と悪口を言い続けていた。」

 

「癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、

好きな本を物色することで気を紛らわせた。

だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず

再び癇癪を起して紙を丸めて捨てたこともあった。」

 

「入院患者に頬を平手打ちされたとき、

どのようにして仕返ししてやろうか

一人妄想にふけっていたと随筆「瞬間」に記している。」

 

面白すぎます。


一応、真面目に、斎藤茂吉先生の略歴を追いますと・・・

 

斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年5月14日~1953年2月25日)

 

幼少期より成績優秀で神童とまでいわれるが、

生家、守谷家には経済的な余裕がなく、進学の為、15歳、

東京で医院を開業する同郷の医師・斎藤紀一の養子候補として上京

この病院に関しては『楡家の人々』に詳しく書かれています。

 

 

うちの結婚前は東京在住だった母も、

子供の時に何かしでかすと「青山の病院に連れてく」と言われたそうで、

(叱り方に問題はあるが・・・)

 

 

 

 

「青山脳病院」が、いかに大きな病院だったか、解るというもの。

お相撲さんのたてまちも務めたほど。

 

 

 

やはり大病院の家系で作家の加賀乙彦先生と重なるところ多し。

 

その時、「ドクトル斎藤紀一氏令嬢輝子」御年9歳、

1914年4月、養父・斎藤紀一の長女で当時19歳の輝子と結婚。

斎藤家の婿養子となる。

みどりが若い頃、輝子様はまだご存命で、

各国への旅に明け暮れる、奔放婆としてご活躍中でした。

茂吉様とは全く嗜好が違い、上手くいかないご夫妻で、

双方、浮気の話があった・・・くらいの認識だったかな。

 

 

 

結婚2年後の1916年(大正5年)には、長男茂太が誕生。 

 養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、

輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。

お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していた・・・そうですが、

ううむ、ダイアナ妃に「妃殿下はこうあるべき」と説くようなもの?

↓  当然、

「 性格や育ち、価値観の違いから、夫婦の関係は上々とは言えない展開。

輝子は茂吉の体臭を嫌い、「おお臭い」と舌打ちしてこれ見よがしに部屋を出たり、

娘の百子の育児を放棄して映画を見に行くなどし、

これら輝子の自分勝手な行為には茂吉も憤慨、

しばしば衝突し家庭内暴力に及ぶことも度々であった。」

Wikipedia様より

 

「1933年、ダンス教師が華族や上流階級の婦人との不倫や、

集団遊興を繰り広げていたとされる「ダンスホール事件」が発生。」

Wikipedia様より

 

逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性に、輝子様があ。

茂吉様も堪忍袋の緒が切れて、輝子様と以後12年に渡り、別居を敢行。

この事件について茂吉様は、「精神的負傷」と記されている由。

 

 

 

輝子がどうしたかというと、母の生家がある秩父、

茂吉の実弟が経営する山形・上山の旅館 「山城館」に滞在。

 

 

最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院「本院」へ、

一方の茂吉は青山の「分院」での生活を続け、

戦争の悪化で1945年、山形疎開に至り、同居再開。

 

二十年つれそひたりわが妻を忘れむとして衢(ちまた)を行くも

 

・・・なんて、詠んでらっしゃいますが・・・

 

輝子と別居の翌年、9月16日に向島百花園での正岡子規忌歌会。

永井ふさ子様(1910年9月3日~1993年6月8日)当時24歳、愛媛県松山市出身。

と、ちゃっかり出会ってる。

 

 

 

これがまあ、お医者の家系のいい家のお嬢様で写真の通りの別嬪。

親子か、爺孫か?なお二人ですが、あっという間に熱々な関係に。

 

合作の歌が遺ってますね。

 

(茂吉)光放つ神に守られもろともに (ふさ子)あはれひとつの息を息づく

 

茂吉先生、愛人に、くれぐれも書簡は読後燃やすようにと頼んでおられたそうです。

相手が「はい、わかりました」なら、世の中、不倫隠しで苦労する男性などおらんわい。

初めのうちこそ、確かに燃やしてらしたようですが、

結局120通にも及ぶ書簡が保存され、その他にも、手帖に書き留められていたものも。

これが、茂吉先生没後10年に、記念出版!?

 

 

以下、抜粋

 

「ふさ子さんは小生のどういふところがお好きなのですか 小生には不明ですからお仰つて下さい。」

 

「ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんないい女体なのですか。

何ともいへない、いい女体なのですか。

どうか大切にして、無理をしてはいけないと思います。

玉を大切にするようにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。」

(この手紙、その上手渡し)

 

「ふさ子さんの小さい写真を出してはしまいひ、又出しては見て、為事しています。

今ごろはふさ子さんは寝ていらっしゃるか。

あのかほを布団の中に半分かくして、目をつぶって、

かすかな息をたててなどとおもふと、恋しくて恋しくて、

飛んででも行きたいやうです、ああ恋しいひと、にくらしい人。」

 

「東横の地下室の隅のテエブルに身を休ませて珈琲一つ注文して、

天下にただ一人、財布からパラピン紙に包んで、

その上をボル紙で保護した、写真を出して、目に吸ふやうにして見てゐます、

何といふ暖かい血が流るることですか、

圧しつぶしてしまひたいほどです、圧しつぶして無くしてしまひたい。

この中には乳ぶさ、それからその下の方にもその下の方にも、すきとほって見えます、

ああそれなのにそれなのにネエです。食ひつきたい!」

 

さいですか。ご子息、北杜夫様が、

「古来多くの恋文はあるが、これほど赤裸々でうぶな文章は多くはあるまい」と、

評伝『茂吉彷徨』に

お書きになってらっしゃる。

 

 

 

しかし、ふさ子様が茂吉様の死を知ったのはテレビの報道で。

「先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました。」

と、びっくらこん!な書簡出版で、ご家族を驚かせたとはいえ、

かつて「臭い」と言い放ってた夫の晩年、輝子様は献身的に付き添われたとのこと。

その後は、80歳を超えてもエベレスト登山にまで挑むような活発な老後を送られ、

「茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、

その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う」

と、公共に語っちゃう「元愛人」とは根本的に違う。

 

 

 

男性の甘言になびきそうな、綺麗でお若い女性諸氏、くれぐれも、お気を付け下さい。

まあ、最近は、お子さんが居てさえ、ほいほい、離婚して元妻使い捨てな方も多いですけど。

ああ、楽しい近代文学史お勉強でした。