見分けと嗅ぎ分け | 囲炉裏端のブログ

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伊豆・松崎町は、観光資源に恵まれているところです。町への思いを具現化するため、互いに情報交換をよくし、住みよい町づくりを目指します。

私は、見分けより「嗅ぎ分け」のほうが役立たずと思っていた。しかし、よく考えると「嗅ぎ分け」は個人的であり、これが失われたことで現代人は衰退の一途をたどっているように思う。

これがひらめいたのは、パフューマー(調香師):S氏との出会いによる。私が郷土史に詳しいいうことで、氏と結びつかせたのである。地方という狭い領域にいると、かなりの権威者との出会いが可能となり、私の頭脳の活性化はいまだやめない。

S氏は、私の思いつくままうなづきながら興味深く聞いてくれる。私の心が氏の体内に流れる気配を感じ、こちらも気持ちよくなる。

これは後日談だが、氏の著書を読むまで「調香師」の語は知らなかし、今にして言葉を嗅ぐ(吸収)ことを知ったのである。目は幅広く読み解くが、それだけに薄められてしまう。そこへいくと「嗅覚」は全くの個人によるものである。それだけに深みを増すのである。

来町されたのも、この町出身の娘Hが会社創業者Kにとつぎ、夫Kがそれを契機として教授をやめ、渡欧して香料研究にはいるストーリーである。私には彼女の「薫香」にしてこの道に入らしめたと感じるのである。
なおここには伏線があり、ある著名人が海外留学の折、そこから彼女に「香水」が贈られと推察するのである。これはただの推察でなく、ハガキだがラブレターに似た文面に接していたからである。なお彼女の「魔性」は、Kの弟まで感化させ、有名画家に押し上げる。

香りの「魔性」、嗅ぎ分けという個人的感性、その喪失が社会をおかしくしたと思うのである。S氏は「某会社百年史」を編纂中という。それが発行されるとき、わが町が創業起因と書かれるか、興味はつきない。

人間パンツをはいたことで顔に目線が集まり、排泄物の臭いを嫌ったことが一層「嗅ぎ分け」を退化させたのである。なぜかそれが「差別化」を深め、格差社会の最大要因とも思われるのである。視覚に胡麻化され、真実を「嗅ぎ分け」能力を失ったのだと。