ようやく見つけた善六墓 | 囲炉裏端のブログ

囲炉裏端のブログ

伊豆・松崎町は、観光資源に恵まれているところです。町への思いを具現化するため、互いに情報交換をよくし、住みよい町づくりを目指します。



わざわざ北海道から来てくださるY氏である。それも「勉三没後90年授業」の講師として。氏は晩成社に関わった人物(三余・勉三・佐二平・善六・善吾)の墓参から始めたいという。


しかし、肝心の初期晩成社長:依田善六の墓が見いだせないのである。西伊豆地方随一の資産家である。また、治山・河川改修、幅広く寄付を重ねる、いうなら町の中興の祖、住民こぞってお参りしても罰があたらない人徳者だったのである。


私にとって今回は2度目の探索である。いや以前にもやっているので数回目となる。今度はY氏の訪問が目前に迫まり、絶対見つけるという決意から、まず郷土史家、親族の家を訪ねてからにする。だが図面を示して「ここ」とは教えてもらえなかった。


観光協会前の広大な駐車場は、善六:塗り屋の屋敷だったのである。もし大正3年の愛鷹丸遭難事故がなければこのように零落、墓守が住まないようにならなかったであろうに。


私は、これほどまで「人間って哀しいもの」と、涙ぐみながら苔をむしり文字を読む。宝暦・文久などと読める。立派な古い居士名の墓石が並ぶが、善六が亡くなった大正9年のものが見つからないのである。


諦め帰ろうとしたとき、「良園」という文字が気にかかる。幼名「園助」が共通するからである。だが、側面に没年・俗名もなく、しかも「上座」と刻まれる。


私は、自信持てず帰宅する。そして帰一寺住職に「善六は大正9年5月没だが、戒名は如何」とメールする。間もなく「閑道良園上座」との応答、これで確証が得られのである。Y氏にも義理が通じ、わが疑念が解けたのである。


それにしてこの墓域は、かつて繁栄を誇った依田一族(大沢依田は別)のものである。しかし、絶えた家もあり、まさに「草場」の様相を示している。やはり郷土愛をもつなら、一年一度ぐらい参拝してほしいと思う。