機械論 | 筋肉ドクターの気まぐれ日記

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Killing Timeに日記を書き候


今の科学では、人間、生物を分析し機械論的に理解すれば、病気を治せたり健康になれたりすると考えている。

なので、最新の知見から分かった人間の機械論的な構造や化学変化を、薬物や手術で修正すれば健康をコントロールできると思っている。

人間が作り出した最新の機械ならこの論法で最新のパーツでより良いものを作れるでしょう。
しかし、人間は人が作ったもんじゃない。
まあ、お父さんとお母さんっていう人が作ったのですが、ロボットみたいに作ったもんじゃない。

で、理想とする健康体があった時に、薬物という化学合成された今までこの世に無かった物質で体の中を満たして、その理想に到達できるかってことですよ。
もちろん天然の生薬もありますが、発見された天然の生薬では発明した化学合成薬のように特許を取って独占する旨みが製薬会社にありませんからね。
なので、何百万年変わらない人類に、次々に最新の薬物を投与し続けるわけです。

そして、普通に生きていてなかなか無いくらいの大怪我である手術というもので、何かが治ることに期待するわけで、その大怪我を超えるメリットがあるか考えなければならないが、医者も患者も意外とその辺は無頓着だ。
機械なら分解して修理して組み立てても、そりゃ問題無いでしょうけど、人間は機械的に組み立てて作られてないですからね。

そういうそもそも論的に保守的に考えると、今の医療、医学って根本的思想が機械論で、パーツをより細かく見てるだけで、人間個体、生態についてはあまり考えないのが、間違いの始まり、忘却の忘却じゃないかと思うんですね。

新宮秀夫先生が、

どんな技術も必ず危険性を持つが、それを分かって、取りあえず利用している間はまだ良い。しかし、危険性への認識すなわち、“一旦横に置いた”事を忘れるのが人の常であり、それは“忘却の忘却”という事である。技術の危険性が牙をむくのはその時である。

と、工学的なことについておっしゃられているが、機械論で工学的に人体を扱おうとする医学にも言えることだろう。