今まで筋トレマシンを作ってみたりしてきて思うことなのですが、自分で道具買って筋トレしたりジム行って筋トレしていた時に思っていたことの原因が分かったと言うか、筋トレ環境は筋トレ愛のある人が作らないと、意味の無いものになるなと。
私がこういうコンセプトでこういうマシンが作りたいと思っても、概ね製作の方は筋トレしていないしたこともない人なので、マシンに思い入れなんて無い。
だから、結構適当、やっつけ仕事的なんですね。
それを、だからここをこうしてなどと一々修正していかないと、言ったのと違うものを作られたりした。
こういう感じなので、ジム行っても良いマシンが少なかったりするんだろうなと。
トレーニング分かっている人が良いマシンで筋トレしたいとジム作ろうと思うと、結局自分でいろいろやってみてこの会社のこのマシンが良かったって集めたりされるわけですが、要するに各社思い入れがない人たちが作ってたまたま良かったやつを集めるしか無い。
そういう意味では、アーサー・ジョーンズなんて自分で筋トレ理論考えてやって、それに合致したマシンを作ってたからノーチラスで一気に筋トレマシンのレベルが上がったんだろうなと思うんですよね。
要するに、適当に作って売れればラッキーみたいな人が作っても良いものができないんですね。
儲からないならやらないみたいな人が作っても、ろくなものができないんです。
損得勘定から離れて無償の遊戯性で良いのができたら嬉しいみたいな人が作ると、お金をかけようがかけまいが、良いものができやすいということです。
こういう感覚って無償の遊戯性を極めたオタク感覚なんでしょうね。
私が思うに社会に革新を起こす人ってオタクなんです。
自分は頭良いからもっと儲けようみたいな人は、何も良い変革を起こせない。
磯田道史さんによると、江戸時代はオタク社会だったようです。
250年も平和が続いている間にオタクを醸成する社会ができあがった。
だから幕末の日本人は優秀だったんだと思うんですよね。
しかし、現代社会、オタクを醸成するどころか、記憶装置みたいな人間性のない結局損得勘定だけで動く人間ばかり作る教育をし続けている。
そして、お金を払わないと優秀な人が集まらないなどと下らないことを言っている。
お金が大して貰えなくても、無償の遊戯性でやる人を作る教育した方が絶対に凄いものができるし社会も良くなるのに。
逆にそういう人の遊戯を断念させないように支援する社会を作らないと。
小狡い損得勘定マシンを作って、そういう人を頭良いなどと言っている世の中では、優秀な人間は育たない。