はじめに
アーレントを解説した本「悪と全体主義」
改めて「世界の哲学者に人生相談」の「PTAが面倒」への回答を見てみる
引用「アトム化」について
引用「複数性」について
【特に重要】引用「人間の条件」について
全体主義を防ぐ具体的な方法はない
まとめ(番組に言いたいこと)
(長文ですみません。「はじめに」と「【特に重要】引用「人間の条件」について」だけでも読んでいただけると嬉しいです)
はじめに
前の記事では、2、3年前にEテレでやっていた「世界の哲学者に人生相談」という番組で哲学の先生がお答えしていた「PTAがめんどくさい」という主婦のお悩みへの回答に異議ありという事を書きました。
今回の記事はこの続きです。
前の記事でも書きましたが、4月からEテレでは「ロッチと子羊」という番組が始まりました。その番組も「世界の哲学者に人生相談」同様、一般人のお悩みに哲学の先生が昔の哲学者の思想を用いて答える、という内容です。
(両番組とも、山口大学教授の小川仁志先生が回答者として出演しています)
次回4月21日20時からの「ロッチと子羊」の予告には
めんどくさ~い地域活動、あなたならどうする?…アーレントの哲学とは
とあります。
(4月22日追記。オンエアを見た上での取り急ぎの投稿)
https://ameblo.jp/iroirohitorigoto/entry-12738704425.html
かつて「世界の哲学者に人生相談」でも「PTAがめんどくさい」というお悩みを取り上げ、
小川先生がアーレントの思想を用いて回答するという回があったのですが、
私はその内容に違和感を覚えたので、放送からだいぶ経ってしまいましたがブログで反論しました。
小川先生の哲学者としての研究活動や業績を批判するつもりは全くないですし、私みたいな哲学を専攻したことない人間が反論しても説得力がないのは分かっています。
また、NHKの番組である以上スタッフも放送内容に関わっていますし、放送内容に責任を持つのは先生ではなくプロデューサーです(テレビ局の事情はよく分かりませんがそういうものですよね?
小川先生個人を批判したいわけではないことをご理解をお願い致します。
しかし、本来任意参加であるはずのPTAと自治会への参加を強要される被害が全国的に相次いでいる事や、
「PTAに入らないなら子どもを登校班には入れない」
「自治会に入らないならゴミ捨て場を使わせない」
といった脅しが相次いでいることを考えると、番組に反論しない訳にはいかなかったんです。前の記事にはこのあたりの事も詳しく書きました。
これも詳しくは前の記事を読んでいただきたいのですが、
知的障害のある男性が自治会の班長決めのくじ引きに参加することを強要され、
「障害があるから班長はできない」という事を説明することも強要された末に自殺するという
大変痛ましい事件も起こっています。
アーレントを解説した本「悪と全体主義」
今回の記事では、アーレントの「全体主義の起源」「エルサレムのアイヒマン」を一般向けに解説した新書、仲正昌樹先生の「悪と全体主義」(NHK出版 2018年)からの引用を中心に「世界の哲学者に人生相談」に反論します。
仲正昌樹先生はNHK Eテレの「100分de名著」の「全体主義の起源」の回に解説者として出演しました。
「悪と全体主義」はそのときの番組テキストを加筆して再構成したものです。
「100分de名著」のサイトにはアーレントはどういう人物か、なぜ「全体主義の起源」を書いたかということを詳しく解説していますので、このへんの解説はそちらに譲ります。
(ごく簡単に説明すると、アーレントはドイツ出身のユダヤ人でナチスから逃れるためにアメリカに亡命しました。戦後、なぜ全体主義が生まれたのかを考えて著したのが「全体主義の起源」です)
私もこの番組は観ていたのですが、後述するように仲正先生は「全体主義を防ぐには地域活動(PTAや自治会)に参加する事が必要だ」とは一言も言っていません。
そもそもそれはアーレントの思想ではなく小川先生ら「世界の哲学者に人生相談」の現代人の意見です。
アーレントの「全体主義の起源」は分厚いし難解、日本語訳は4000~5000円します。
新書はそれに比べたら短いし易しいけれど、それでも長かったし難しいです。
新聞やネットニュースの記事の比ではありません。
私は哲学を専攻したことがありませんし、どこを引用するかという選択が正しいかどうかも分かりません。
ブログ用に引用箇所を厳選しましたが、本当はもっと引用した方がいい箇所はたくさんあります。
いや、本当は皆様に仲正先生の新書そのものを読んでいただきたいのですが、
そう言っても実際に読んでくれる方は限られていますし(決して馬鹿にしているわけではありません)、
反論のために引用箇所を厳選します。
改めて「世界の哲学者に人生相談」の「PTAが面倒」への回答を見てみる
その前に、「世界の哲学者に人生相談」の回答を改めて掲載します(私の記憶が曖昧なので間違っている可能性もあります)
「①人間が自分の関心事や好きなことばかりやっていたり、関心事や立場が似ている人とばかり付き合ってると、政治や社会に関心がなくなりヒトラーやスターリンみたいな独裁者の台頭や社会の全体主義化を許すことになる。
②そうならないためにはPTAのような関心のない活動にも参加し、異なる意見や立場の人達と関わり話し合う事が大事だ。関心がなくても地域と関わる事が大切だ」
という内容でした。
小川先生は別のメディア「ARIA」で「子供会のメンバーにイライラする」という悩み相談にも回答していますが、そちらでもアーレントを用いて同様の回答を行っていました。
(タイトルが「女性哲学者・アーレントが(中略)を諭す」となっていますが、諭しているのはアーレントではなく小川先生です)
ここではあくまでも「世界の哲学者に人生相談」の回答への反論をします。ですが私の記憶が曖昧なのでそれを補うために、「ARIA」の回答の一部を引用します。
アーレントは著書『人間の条件』のなかで、人間の営みを3つの側面から捉えています。労働(labor)、仕事(work)、活動(action)です。
「労働」は、人が生きていくために必要なものを生み出す行為。食事を作る、洗濯をするなど、生活と密接で生きるために必要な行為。家事労働などにあたります。
「仕事」は、生活を向上させるための活動や、すぐには消費されないものを生産する行為で、道具や建築物などの成果物を残します。
そして、彼女が最も重視したのが「活動」です。草の根の政治活動や地域活動、ボランティア活動などを指します。
これについては後で仲正先生の本から引用します。
続いて
アーレントによれば、人間は政治的な動物で、共同体で議論してものごとを決め、共に支え合っていく存在。人間にとって「活動」は不可欠であり、労働や仕事だけでなく、「活動」を取り入れた生活こそが人間らしい生活なのです。
なぜなら、「活動」には“複数性”があるからです。家庭や職場、趣味のサークルとは違い、自分とは異なる生活環境、価値観の人、異なる意見があり得る場所です。そういう場がないと世の中は開かれていきません。そう意識すれば、みんなの意見を聞くことも「ムダな時間」ではないと思えるのではないでしょうか。
と続きます。
ここに出てきた「複数性」は重要なキーワードですので、仲正先生の本からも引用します。
私の記憶では、「世界の哲学者に人生相談」でも同様の回答をしていましたし、上に載せた要約とも大差ありません。
要するに「異なる意見や立場の人と話し合う、PTAや子供会、自治会といった地域活動の場は大事ですよ」とおっしゃりたいのですから。
ではここで、仲正昌樹先生の「悪と全体主義」からの引用を始めます。
(出典でタイトルのないものはこの本からの引用です。出典では章のタイトルのみを掲載します。
また、引用部分内の引用部分は注釈のない限りはアーレントの本からの引用です。このブログでは孫引きになります。
引用文の太字や大きな文字などの文字装飾はすべて私の編集です。)
引用「アトム化」について
まずは「アトム化」について。
労働者階級、資本家階級など、自分の所属階級がはっきりしていた時代であれば、自分にとっての利益や対立勢力を意識することは容易でした。逆に言うと、資本主義経済の発展により階級に縛られていた人々が解放されることは、大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味したのです。
アーレントはこれを大衆の「アトム化」と表現しています。多くの人がてんでんばらばらに、自分のことだけを考えて存在しているような状態のことです。大衆のアトム化は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、西欧世界全般で見られました。
かつては一部の人しか持ち得なかった選挙権が、国民国家という枠組みのなかで、多くの人にもたらされたことも、「大衆」が社会で存在感をもつことにつながりました。選挙権は得たものの、彼らは自分にとっての利益がどこにあるのか、どうすれば自分が幸福になることができるのか分からない。そもそも大衆の多くは、政治に対する関心が極めて希薄でした。
(第3章 大衆は「世界観」を欲望する)
引用「複数性」について
次に「複数性」について。
アーレントにとって、人間は私的(プライベートな)領域だけでなく、「政治的領域」でも生活する存在です。私的領域は、生物として生きていくうえでのニーズを満たすだけの領域です――アーレントは、私的領域を親しい人同士の親密な関係が築かれる領域というより、人の生活に関わる様々なことが秘密裏に(in private)処理される存在としてネガティヴに捉えています。それに対して、政治が営まれる公的領域では、人々はお互いに言語や演技によってお互いに働きかけ、説得しようと努力する中で、他社が人格を持った存在であること、更に言えば、自分とは異なった意思を持つ存在であることを学んでいきます。
そのようにして自律した道徳的人格として認め合い、自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を、アーレントは「複数性 plurality」と呼びます。アーレントにとって「政治」の本質は、物質的な利害関係の調整、妥協形成ではなく、自律した人格同士が言葉を介して向かい合い、一緒に多元的(plural)なパースペクティヴ(編注:遠近法、物の見方、という意味です)を獲得することです。異なった意見を持つ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは、次第に人間らしさを失っていきます。
(第3章 大衆は「世界観」を欲望する)
アイヒマンがいかに陳腐で、どこにでもいそうな人間だったとしても、彼を死刑にすること自体にはアーレントも反対していません。ただ、彼を死刑に処すべき理由は、彼に悪を行う意図があったかどうか、彼が悪魔的な人間だったかどうかということとは関係なく、人類の「複数性」を抹殺することに加担したからだと主張しています。
(中略)
人間は、自分とは異なる考え方や意見をもつ他者との関係のなかで、初めて人間らしさや複眼的な視座を保つことができるとアーレントは考えていました。多様性と言ってもいいでしょう。アイヒマンが加担したユダヤ人抹殺という「企て」は、人類の多様性を否定するものであり、そうした行為や計画は決して許容できないというわけです。
(第4章 「凡庸」な悪の正体)
ナチスの親衛隊の中佐だったアイヒマンについても仲正先生の本で詳しく解説されています。引用したいところですがスペースの都合でカットします。お手元に本がない方はウィキペディアをご覧ください。アイヒマンはナチスの親衛隊の中佐で、ユダヤ人の強制収容所への移送の指揮的役割を担いました。
【特に重要】引用「人間の条件」について
「人間の条件」について
西欧哲学には、カント的な普遍的理性という点から「人間」を理解しようとする思考の系譜と並んで、むしろ「人間性」というのは歴史的・文化的なプロセスのなあで形成されてくるものだという考え方もあります。アーレントは両方を視野に入れて議論をしています。しかも、歴史的、思想史的、文学的な材料を豊富に取り入れて複雑な「人間」論を展開するのですが、『全体主義の起源』の七年後、『エルサレムのアイヒマン』の五年前に刊行された、彼女の主著『人間の条件』では、後者の「人間」観の系譜に基づいた議論が展開されています。この著作では、「人間」は、特に言語の面での知的訓練を通じて教養を獲得することで、一個の人格として自律し、理性的に思考することができるようになる存在として描き出されています。
この著作でアーレントは、「人間」であるための三つの条件として①労働(labor)、②仕事(work)、③活動(action)を挙げ、それらの起源を歴史的に考察しました。アーレントの言う「労働」は、工場の作業のようなものではなく、ヒトの肉体が生命として生きていくために必要なものを獲得する営みです。他の動物の営みと決定的に異なるわけではありません。「仕事」というのは、自然の過程には属さない、家具や機械、また芸術作品のような「人工物」を作り出す営みです。そうした人工物を介して、ヒトとヒトは動物の間には見られない、人間固有の関係性を構築することができます。例えば、テーブルがあることで、そこに間を置きながら一緒に席に着く、という具合に。「活動」は、物理的な力ではなく、言語や演技によって他の人の精神に働きかけ、説得しようとする営みです――英語の<action>には「演技」という意味もあります。
この内、「活動」が最も重要で、まさにヒトを「人間」らしくする条件です。動物は言葉によって同類を説得しようとしません。演技のようなことはしますが、それは生きるために必要な情報の伝達であって、「花が美しい」とか「彼の仕事はすごい」といった意見や、自分なりの見方を表明し合っているわけではありません。
(終章 「人間」であるために)
仲正先生はアーレントの言う「活動」を
物理的な力ではなく、言語や演技によって他の人の精神に働きかけ、説得しようとする営み
あるいは
ヒトを「人間」らしくする条件
と解説しています。
一方で「子供会のメンバーにイライラする」の小川先生の回答では
そして、彼女が最も重視したのが「活動」です。草の根の政治活動や地域活動、ボランティア活動などを指します。
とありますが、仲正先生と小川先生で解説が食い違っています。
小川先生が「草の根の政治活動」「地域活動」「ボランティア活動」と具体例を挙げて「これらがアーレントの言う『活動』です」と解説しているのに対し、仲正先生はそのような具体例は一切出していません。
「どちらが正確なのか」という議論はここではしません。仲正先生の本に話を戻します。
ここでまた「複数性」について
自分の「意見」を他者に向かって表明するという行為は、相手は違った意見を持っているかもしれない、違う見方をしているかもしれないことを前提にしています。みんなの「意見」が同じだったら、「自分の意見」をわざわざ表明する意味はありません。そして、実際に「意見」を表明し合い、他人のものの見方を知ると、自分の「意見」も変化していくかもしれません。様々な「活動」を通じて、私たちのものの見方が多元化していくこと、それが第3、4章でお話しした「複数性」です。「複数性」が確保され、増殖していくには、ヒトとヒトを結びつける「間 in-between」の空間が必要です。「間」というのは、言葉によって相互に関係し合っていると同時に、物理的な距離があるということです。暴力とか脅迫、身体的、情動的影響によって、相手を強引に動かすのではない以上、ちゃんと距離(間)を置くことが必要です。偶然ですが、ヒトとヒトの「間」を繋ぐものが「人間」である、という日本語の慣用的言い回しと、同じような発想ですね。
(終章 「人間」であるために)
ここが最も重要なポイントなのですが、アーレントの言う「人間(人間の条件)」は古代ギリシアのポリスの市民を前提に語られています。
ただ、『人間の条件』でアーレントが言うような「活動」を中心とした「人間」観は、古代ギリシアのポリス、特にソクラテスやプラトン、アリストテレスが活動したアテナイにおける「公的領域 public realm/私的領域 private realm」の分離を前提に展開されています。
(終章 「人間」であるために)
つまり、アーレントの言う「人間」観は現代日本とは全く異なる社会に生きる「市民」を基にしているのですが、小川先生の回答にはこの説明は全くありませんでした。
仲正先生の本の引用に戻ります。
「公的領域」というのは、人々のあらゆる意見、ものの見方が隠されることなく、公(パブリック)になる領域です。「政治」の領域とほぼイコールです。政治の場での民主的討論を通じて市民たちは「活動」のための技法を高め、複数性と共に生きるようになりました。それに対して、「家」の中心とする「私的領域」は、「労働」や「仕事」によって、ヒトの生物としてのニーズが充足されます。その「労働」や「仕事」を担うのは、家長である市民自身ではなく、奴隷や他の家族です。奴隷や他の家族は、市民と対等で自由な存在ではなく、力によって支配されている存在です。
(終章 「人間」であるために)
つまり「活動」のための技法を高められ「活動」に参加できる人(市民)は、古代ギリシアでも恵まれた立場の限られた人達だったんです。
現代日本のPTAの主な担い手は母親ですが、アーレントの言う「労働」や「仕事」をせずに済み、PTAに限らず地域活動やそれ以外のボランティア活動、政治活動などに自分の時間を自由に使える母親って、現代日本にはほとんどいませんよね?
(父親にも、子どものいない男性にもそんな人はあまりいないと思います)
私はむしろ、PTAがアーレントの言う「労働」にあたるもの、ポリスで「市民」によって力で支配されている「奴隷」や「他の家族(おそらく妻子)」が担わなければならないもの、だと解釈した方がしっくりきます
(あくまで個人の意見ですが)
自治会の主な担い手は高齢者、子供会は(親によって参加させられる)子供達ですが、自治会も子供会も多くの会員にとってはアーレントの言う「労働」に当たるものなのではないか、というのが私の見方です。
私は高齢者ではないけど自治会の当番ならやったことがあります。
当番を引き受けた事自体、「上からやらされた」感がありますし、実際に1年間やってみて「上からやらされる仕事」をこなすだけだったという感じです(これはうち以外の会員さんも、おおむねそうだったんじゃないかと思います)。
自治会の体験記はいつか書いてみたいですが、UPできるかは分かりません。
それはさておき。
「世界の哲学者に人生相談」の「PTAが面倒」への回答は、「古代ギリシアのポリスの市民」しか実践できないような「人間」観を相談者に提示し、実態は「労働」であるPTAを「活動」として紹介して
「異なる意見や立場の人達と話し合う場であるPTAに参加するのって大事なんですよ」と諭したから、私が違和感を持ったんだと仲正先生の本を読んで判明しました。
前の記事でも紹介しましたけど、
「自治会に入らなければゴミ捨て場を使わせない」
「PTAに入らなければ子供を登校班には入れない」
などと脅して自治会やPTAの活動を強制する実態はあります。
(もちろんそんな自治会やPTAばかりではないと思いますが、悪質な自治会・PTAは残念ながら全国的にあります)
もう一度仲正先生の本から引用します。
「複数性」が確保され、増殖していくには、ヒトとヒトを結びつける「間 in-between」の空間が必要です。「間」というのは、言葉によって相互に関係し合っていると同時に、物理的な距離があるということです。暴力とか脅迫、身体的、情動的影響によって、相手を強引に動かすのではない以上、ちゃんと距離(間)を置くことが必要です。偶然ですが、ヒトとヒトの「間」を繋ぐものが「人間」である、という日本語の慣用的言い回しと、同じような発想ですね。
(終章 「人間」であるために)
これは「暴力とか脅迫、身体的、情動的影響によって相手を強引に動かす」場では「複数性」は確保も増殖もされないって読み解くことができます。
だから悪質な自治会やPTAでは「複数性」なんて生まれないし、組織自体が全体主義的だから(これについてはいつか別の記事で語りたい。できるか分からないけど)社会の全体主義化を防ぐのに役に立たない、と私は思います。
アーレントは日本に住んだこともないし生きた時代も違うけど、現代日本のPTAや自治会を見て「複数性」の確保された「活動」の場だと見なすでしょうか?
「私的領域」で、生活の上で必要なニーズや経済的問題が処理されており、それが表に出てこない(=公にならない)おかげで、「市民」たちは、いろいろなしがらみに煩わされることなく、自由に討論できます。(終章 「人間」であるために)
このくだりを読んで私は「昔ながらの男性政治家」を連想してしまいました。家事、育児や介護は妻任せ、祖父の代から政治家だから生活費も政治資金も心配いらないといった「昔ながらの男性政治家」です。
実際にはこのタイプに当てはまらない政治家もいますが、一般国民でこのような生活のできる人はほとんどいません。
また、20代~40代ぐらいの女性政治家は母親として育児をしながら政治活動をしている方もいます。というか、日本で女性政治家が少ない理由は男女問わずこういう方々が議員として活動しにくいからですよね。
古代のポリスでは、他人の「労働」や「仕事」のおかげで、自由に「活動」できる市民たちが存在できたわけですが、近代社会ではそうはいきません。ほぼ全てのヒトが労働や仕事に従事して、生活の糧を得ています。個々の「家」ではなく、社会全体に関りを持つ「経済」の動向に左右されることなく生きられる人はいません――「経済」という意味の英語<economics>の語源になったギリシア語<oikonomia>の原義は、家政術、家を運営するという術ということです。
(終章 「人間」であるために)
「経済」が"政治"の主要なテーマになったことで、もやは古代のポリスのように、利害関係抜きの討論をすることはできません――アーレントも現実のポリスの政治では、利害関係によって議論が左右されていたということは十分承知していたでしょうが、これは古代と近代を対比するための理念的な抽象化ですので、そこは我慢しておつきあい下さい。
利害が関わると、どうしても自分に有利になるように物事を見ようとしますので、多様な意見を持つことは難しくなります。
(中略)
(アーレントのイメージする)ポリスの市民たちと違って、現代の大衆社会に生きる私たちには、「公衆 the public」の前で優れた討論をすべく、自分の言葉を磨く時間も余裕もさほどありません。単に人前でしゃべるとか、ツイッターで発信するといった程度のことなら難しくありませんが、他者たちの視点から、自分のものの見方、考え方を批判的に問い直し、他者に伝わる表現を見つけるというのは結構大変なことです。アーレントの「活動」論をフォローしていると、どうも「活動」というのは知的エリートの能力ではないのか、討論に向けて自分を磨く時間も金もない一般人はどうしたらいいのか、という気になってきます。
「人間」を支える教養
実際、そうかもしれません。アーレントの議論が、というより、「人間」という概念自体が、もともとは知的エリートのためのものでした。
(終章 「人間」であるために)
無論、文系の知的エリートであれば全体主義に陥らない、と言いたいわけではありません。職業的な知的エリートもまた、学会や職場での立場、出版・ジャーナリズムとの関係とか、いろんなしがらみにとらわれていますし、自分の研究テーマ以外のことにはかえって無関心になる傾向もあります。知的エリートも、本書の第3章で確認した意味での「大衆」です。アーレントが理想的な形で描き出した、古代の都市国家の市民のような生き方をしている人は、現代社会ではほぼ皆無でしょう。
(終章 「人間」であるために)
仲正先生の本を読んで思ったことは「現代日本のほとんどの人はポリスでいう「奴隷」や「(市民以外の)家族」と似たような立場である」ということです。
また、PTAや自治会といった日本の地域活動はポリスでいう「労働」に当たるとも思いました。
そうか、だから「世界の哲学者に人生相談」の回答に違和感を覚えたんですね!
全体主義を防ぐ具体的な方法はない
アイヒマンにならないための手軽な方法も、全体主義の再来を防ぐ「分かりやすい」処方箋も、残念ながらありません。ただ、閉塞的な現状を打破するような妙案があるように思われたとき、少なくともそれが唯一の正解ではないこと、まったく異なる案や物語も成立し得るということを認めることができれば、全体主義化の図式に完全に取り込まれることはないでしょう。
(第4章 「凡庸」な悪の正体)
既にお話ししたように、現代における全体主義の可能性を絶対に封じることのできるようなうまい手はありません。この人の言うように、あるいはこのマニュアルの通りにすれば、全体主義に陥ることは絶対ない、というようなものがあると主張するのは、全くもって転倒した話です。アーレントも当然、そんなうまい対策は示していません。
(終章 「人間」であるために)
もうこの引用部分でこの記事を締めてもいいんじゃないかって気もします。
前の記事で私が反論したように「アーレントはそんなこと(全体主義を防ぐために地域活動に参加しなさい)は言ってない」んですよね。
まとめ(番組に言いたいこと)
最後に、私が「世界の哲学者に人生相談」と「ロッチと子羊」に言いたいことを書いて終わります。
・アーレントが言ってない事(全体主義を防ぐために地域活動に参加しなさい)をあたかもアーレントの思想であるかのように紹介しないでほしい。それは小川先生の意見でありアーレントの意見ではありません。
・小川先生が「全体主義を防ぐために地域活動への参加は大切だ」と考えることは自由です。しかしアーレントの言う「活動」は現代日本の地域活動とは限りません。
また、アーレントの言う「活動」は古代ギリシアのポリスの市民(アーレントの言う「労働」も「仕事」もしないで済んだ人達)が、奴隷や他の家族に労働や仕事を力で担わせて行っていたことです。そのことを番組でも説明していただきたかったです。
私は日本の地域活動(PTA、自治会、子供会)は「活動」ではなく、ポリスでいう「奴隷」や「他の家族」の担う「労働」だと思っています。
・また、ポリスの「市民」のような存在はそもそも現代日本にはほとんどいません。特にPTAの主な担い手である母親には皆無に等しいと思います。
今や専業主婦世帯よりも共働き世帯のほうが多いですし、多くの母親が育児の他に仕事(アーレントの言う「仕事」ではなく、賃金労働という意味での「仕事」です)をしていますし、ポリスと違って日本の平均寿命は高いから親の介護をしている女性も多いです。介護の負担は男性よりも女性(介護される人の娘や、息子の妻)にかかっています。
・まさかないとは思いますが、番組関係者は全体的に「日本の母親は専業主婦だ。専業主婦は暇だ。だからPTAぐらい面倒くさがらずにやれ」とお考えでしょうか?
専業主婦も育児や介護で忙しいです。
(あと、パートも含めて全く賃金労働をしていないという意味での専業主婦って、現代日本には少数派ですよね? ※病気療養中の方や失業中の方を除きます)
「すくすく子育て」を制作、放送している局なのでそのあたりの事情はよくご存じですよね?
それとも主婦層のご機嫌を損ねないように、主婦(母親)もポリスの市民扱いにして(実態はもちろん違う)、PTAを「労働」ではなく「活動」と紹介したのでしょうか?
・前の記事でもこの記事書いたように、PTAや自治会の強制加入問題があります。
そのようなPTAや自治会にはアーレントの言う「複数性」が確保されていません。
「暴力とか脅迫、身体的、情動的影響によって相手を強引に動かす」場では「複数性」は確保も増殖もされません。
だから、「複数性を確保するためにPTAや自治会へ参加した方がいい」という意見には反対します。
・自治会の当番をやった経験から、自治会という場は会員同士が自由闊達に議論していちから活動内容を決める場ではないと知っています。アーレントの言う「活動」のできる場ではありませんでした。
2022年8月9日追記。PTAについて新しい記事を書きました。
余談ですが仲正先生は統一教会の元信者なんですね。「悪と全体主義」には統一教会の話は全然書かれていませんが、新しい記事に書いた通りカルトは全体主義です。全体主義の集団にいた人が全体主義を解説する本を出すって必然だな。