福井県坂井市の丸岡城へ行った。🏯
実は今月上旬にも丸岡を訪れたのだが、
時間が遅かったことと、
ちょうど3年ぶり開催の「お城まつり」の当日で、
重要文化財の天守閣には入れなかった。😰
スマホゲームアプリ「ニッポン城めぐり」の
今の時期のスタンプラリー企画で、📱🏯
丸岡城の入場券売り場の中に貼り出されている
「ニッポン城めぐり」の丸岡城QRコードを
読み取らなければならないこともあり、📲
近いうちに何とかリベンジしたいと思っていた。
今日はちょうど丸岡ならば日帰り出来るため、
そして以前丸岡城を訪れてから17年経ったため、
今回、以前のいずれもクルマでの訪問とは違えて
鉄道+バスで丸岡を訪れることにした。🚃🚌
丸岡は、福井県最大の都市の福井市の北東にある、
織田信長時代に柴田勝豊が築城して以来の城下町。
位置的にしばらく北ノ庄城・福井城の支城として
越前国主の一族や重臣が在城したが、
本多成重時代に福井藩の減封にともない独立した。
本多氏は4代目の重益のときに改易処分となり、
代わって元々は九州・島原半島の戦国大名だった
有馬氏が越後糸魚川から移されてきて、
👉有馬氏は肥前日野江城主として続いていたが、
キリシタン大名からキリシタン弾圧への転換や
「岡本大八事件」への関与などで藩主が疲弊し、
藩主から願い出て日向延岡へ転封していた。
しかし延岡でも大規模な百姓一揆が発生して
藩政が混乱したため、幕命で越後糸魚川へ
減転封となり、越前丸岡に再移封された。
有馬氏が明治まで丸岡城主として続いた。
大藩の居城の福井や金沢とは異なる、
小ぢんまりとした城と城下町の丸岡は、
17年前に一度登城はしたものの、
ゆっくりと城下町まで見て歩きたいと思っていた。
クルマではなく電車+バスを利用するが、
丸岡に鉄道はまったく通っていなくて
(50年以上前に京福電気鉄道線が廃止された)、
JR北陸本線やえちぜん鉄道線から離れていて、
福井駅前から京福バスの路線バスで向かう。🚃🚌
朝、5時前に自宅を出て
伊吹山麓では気温が5℃しかなかった
国道365号線を経由して福井県の敦賀へ行き、
敦賀駅前の市営駐車場に駐車する。🚘
朝7時頃でも、立体の市営駐車場は混雑していて
5階まで上がってようやく駐車出来た。🅿️🚗
今後、北陸新幹線が敦賀駅まで延びてきたら、🚄
この市営立体駐車場はさらに需要が出来て
さらに駐車しにくくなるのだろうかと思った。🈵
しかし駐車後に駅へ行くと、タイミング良く
芦原温泉駅行き普通電車に乗車出来た。🚃
そして1時間弱で福井駅に到着し、
駅西口へ出てすぐのバスのりばから
京福バスの丸岡城行きの路線バスに乗車する。🚏
乗車した丸岡城行きの京福バスは、
福井県立病院の玄関すぐ前のバス停や
ショッピングモールのエルパを経由して、
国道8号線に出て九頭竜川を越え、
丸岡の城下町市街地に入る。🚌
城下町市街地に入ってすぐに、
丸岡バスターミナルという
大きな休憩施設建物やバス車庫などを併設する
田舎町のバスターミナルとしては❗❓
かなり大きな施設に入った。🚏🚌🚍🚖🥤☕
丸岡城に近い訳ではなく、終点でもなく、
何故ここにバスが入るのだろうか❓❓と思い、
後でここまで歩いて来ようと思った。
そして丸岡バスターミナルから10分足らずで
終点で丸岡城本丸の城山のすぐ前の
丸岡城バス停にバスは到着した。🚌🚏
福井駅西口からずっと
丸岡城目当てと思われる乗客が
私を含めて何組か乗車していたが、
丸岡バスターミナルなど城下町では一人も下車せず
みんな丸岡城バス停で下車して
本丸の城山へ向かって行った。🏯🚶🚶♀️🚏
山麓の駐車場前にある「一筆啓上茶屋」と
歴史民俗資料館のすぐ横を通り
城山の石段を上がり本丸に出ると、
入場券売り場の建物があって、
「ニッポン城めぐり」のQRコードも貼ってあり、
今回は無事QRコードのポイントをゲット出来て、
ポイントラリー企画を達成出来た。🎊📱
そして入場券売り場で丸岡城天守閣と
歴史資料館と「一筆啓上 日本一短い手紙の館」の
3館共通入場券を購入し、天守閣へ上がっていく。
明治維新以前からの現存天守閣ではあり、
織田信長の北陸方面軍を率い越前国を支配した
信長重臣の柴田勝家の甥で勝家に従った勝豊が
天正4年(1576年)に建てたと言われてきたが、
江戸時代初期の寛永5年(1628年)に
当時の城主の本多氏が築いたことが判明している。
また昭和23年(1948年)の福井大地震で
この丸岡城天守閣も倒壊してしまい、
昭和30年(1955年)に
倒壊材を元通りに組み直して修復されている。
内部に入ると、面積は小さく、
江戸時代の建築とは言えども、
信長時代の柴田勝豊の築城を踏襲したのではと
思える造りが目立つ。
同様の広さの城郭建築ならば、全国各地に
江戸城や名古屋城・大阪城など、もっと大きな
天守閣以外の現存櫓がいくつもあると思った。
ほとんど梯子のような急なもので、
17年前に来たときも、
スカートの女性の後に男性は登ってはいけないと
思ってしまった覚えがある。👗⤵️❌👨
しかし17年経って登ってみても、
思ったよりかなり急な階段だなと感じた。
5万石の小藩の城下町なので、
城下町のほとんどが天守閣から眺められる。
西側には、城下町のはずれの国道8号線の先に
北陸新幹線の高架線も見える。🚄
逆にこれだけ城下町の全容と
広々とした福井平野を眺められるということは、
独立丘陵の上にポツンとそびえ立つ
丸岡城天守閣は近辺のどこからでも見える、
ということになる。
梯子同然の階段を慎重に下りて1階へ戻り、
江戸時代往時の丸岡城の全容の
ジオラマ模型をじっくり眺めて、
( 江戸時代の丸岡城本丸は、周囲を五角形の
広く満面に水を湛えた内堀に囲まれていて、
大手門と藩主御殿前から本丸へ通じていた。
現在は内堀が完全に埋め立てられている。)
天守閣から退出すると、周囲をぐるりと歩いた。
明らかに徳川氏主導の近世城郭建築とは異なる
丸岡城天守閣は、どの方向から見ても飽きない。
手前に建つ石碑は青白く、明らかに笏谷石で、
👉笏谷石は福井市の足羽山だけで採れる、
非常に加工しやすく重量も軽い岩石。
豪雪地帯で粘土の瓦は割れやすいため、
丸岡城の屋根瓦もこの笏谷石を
全面的に使用している。
昭和15年(1940年)~17年(1942年)の
解体修理工事の記念の石碑と分かった。
丸岡城は、明治の廃藩置県後、
天守閣以外の建築物がすべて破却されたため
本丸にある城郭建築物は天守閣のみ。
城山を下りてすぐ麓の歴史民俗資料館を見学し、
有馬氏時代までの丸岡の歴史を知ると、
丸岡城跡のある霞ヶ城公園の斜向いへ歩き、
一筆啓上 日本一短い手紙の館へ行く。🚶
丸岡藩が福井藩から独立したときの城主の
本多成重は、徳川家康からその次男の
松平(結城)秀康に附けられていたが、
越前国主だった秀康の息子の忠直の代以後に
福井藩は家中騒動が度重なって減封となって
本多成重は丸岡の領地ごと独立大名になった。
その本多成重がまだ乳児の頃に、👶
父親の重次が戦場から母親へ短い手紙を送り、
「一筆啓上」で始まる愛情こもったその内容が
全国的に有名で、丸岡は、「一筆啓上の町」
「日本一短い手紙の町」で売り出していて、
日本中から集まった短い手紙を紹介する
この施設が設けられている。💌
この今の時期は、
愛媛県西予市の美術館とコラボした
かまぼこ板アートとしての書き込みの
短い手紙の交流展示の企画展をやっていた。
また建物の上に展望台が付いていて、
丸岡城本丸の城山がよく見えた。
この後、城山の南西の城下町へ歩いた。🚶
元は内堀だった辺りを過ぎると、
住宅地の中に丸岡城天守閣がよく見えた。
平章館の名称は、藩主御殿と大手門の跡に出来た
市立平章小学校の校名に引き継がれている。🏫
また丸岡城下町の道路の側溝の蓋に
丸岡城天守閣のデザインがなされていた。
お堀の跡に沿って少し進む。
そしてキリシタン↔️有馬氏で繋がるのか、
キリシタン灯籠がある圓光寺もあった。
この圓光寺のすぐ北に「お天守前公園」があり、
西三の丸という武家屋敷街の曲輪だったようで、
丸岡の城下町は、この辺りから北が武家地で
南側を町人町としていた。
ここから、行きのバスの車窓から気になっていた
丸岡バスターミナルの方向へ進んで行く。
途中の「新町」 の石柱と並んで
その下部は公衆電話ボックスのようだが、
すごい勢いで公衆電話が無くなっていることを
丸岡のこの時計台でも実感した。❌☎️
またこの時計台は、公衆電話跡の反対側には
お地蔵さんが収まっていた。📿
この室町の交差点からは、
福井県道10号線の通りの一本西の道を
丸岡バスターミナルへ歩いた。🚶