日本のブログなどの中で散見されるのは「21の練習曲」に関する話が中心で、それも「弾いた」とか「上がった」と言う話ばかり。
練習曲に関する具体的な話は少なくデュポールに関する情報も少ない。
チェロ界で有名な割には情報が少ないと言うのはドッツアも同様だが、この辺り、コントラバスだと、有名人が少ないせいもあるが、例えば、コントラバスの世界で有名なボッテジーニ、ドラゴネッティ、ディッタースドルフの大御所となると相当詳しく研究している人もいるのだが、チェロは大御所が多すぎるのだろう、いちいち一人に関して熱心に調べてる人は少ない様だ。
その為、デュポールも「21の練習曲をレッスンで弾いた」と言うくらいの扱いでしか無い様で、デュポール自身に関心がある人は少ない様だ。
どんな曲でもそうだが、作曲家の事を知る事は演奏するヒントに繋がる。
例えば、僕は練習曲と言えども、リーやドッツアの事をある程度調べて、古いけど良いメソッドだと言う事も理解して弾いたし、ウエルナーに関してはどうしてこんな人のメソッドが日本で主流になってしまったのかも調べたことがある。
そう言う目的で調べてみたところを整理すると、デュポールと言うのはピエールとルイという兄弟だったと言うのを先ず知った。
そこから知らなかったのだが、同じ世界で兄弟で活躍していたと言うのは驚きで、まるで「宇宙兄弟」では無いか(笑)
デュポール兄弟、兄のピエールは1741-1818で、弟のルイは1749-1819と8つ違いの兄弟だった。
日本だけでなく、英語圏含めて、あちこちのブログを読んでみると、実は結構なクラシックファンでも、デュポールと言う名前だけで同一人物扱いしていたり、兄と弟を混同している人も少なくない様なので、ここでハッキリ別けて紹介してみたい。
もしかすると日本初?
最初に書いておくが、彼らの事を体系的に紹介している記事が無く、様々な出来事から兄弟の性格的なところを推測して書いてるところも多い。
先ず、兄のピエールから紹介する。
デュポールと言うのは、名前からして分かる通りフランス人で、弟のルイとともにフランスのチェリストMartin Berteauからチェロを学んでいる。※実は後でこのBerteauの名前が出てくる。
これがMartin Berteau
弟のルイの方は、後で紹介するが、フランスでもチェロ奏者として活躍していたのだが、兄のピエールは何処でどう繋がったのか分からないが、各地でチェロ奏者として渡り歩いた後、プロイセン宮廷楽団の首席チェロ奏者となった。
当時のドイツプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と言うのは「猟色家=いわゆる女好き」で有名だった一方で、音楽も好んでいて、チェロを演奏していたらしい。
首席チェロ奏者となったピエールは国王へチェロの手解きをして親しくなり、作曲も出来た為、王のためにチェロ・ソナタを作ってお気に入りとなり、最終的に宮廷の音楽総監督に成り上がった、いわゆる業界では立志伝中の人物といえるだろう。
つまり、演奏技術も然ることながら、作曲をするのも胡麻を磨るのも上手かった様だ。
これがピエール
このピエールに関して有名なのは、モーツァルトが国王のヴィルヘルム2世へ謁見を希望した時に、このピエールが相手をしたと言う話だ。
晩年のモーツァルトと言うのはかなりお金に困って、1789年にドイツへも知り合いの貴族であるカール・リヒノフスキーへ付いて職探しに来た。
晩年のモーツァルトと言うのはかなりお金に困って、1789年にドイツへも知り合いの貴族であるカール・リヒノフスキーへ付いて職探しに来た。
何故、プロイセンだったかと言えば2つの理由があった。
ひとつはハイドンがその前年の1787年に「プロシア四重奏曲」 を作曲しヴィルヘルム2世に献呈している。
モーツアルトはハイドンを尊敬している為、そのハイドンが作品を献呈した国王なら、ある可能性を考えた筈だ。
それがもう一つの理由で、実は、ウィーンの宮廷では1788年2月にサリエーリが宮廷楽長に任命されている。
モーツァルトの願いであった宮廷楽長への道はこれで遠のいた筈で、国王へ謁見する事が出来れば、宮廷楽団の楽長へ採用される可能性もある。
彼らは4月25日頃にベルリン近郊のポッダムにある、夏の離宮となっているサンスーシ宮殿へ滞在中のヴィルヘルム2世を訪ね謁見を申し入れたが、幼少時の天才児の名声は何処へやらで、国王も大して興味が無かったのか、音楽監督のピエールが代わりに会う事になった。
1789年だから、モーツァルトは33歳、ピエールは40歳、ヴィルヘルム2世は当時44歳くだから、このくらい?
まあ、その辺は現代でも議員に会う前に秘書を通せと言うのと同様だが、ピエールにしても、まだ40くらいなら現役バリバリだった筈で、尚且つ自分で作曲をするのであれば、モーツァルトの作曲の才能は良く分かっていたのでは無いだろうか。
しかし、同じ業界なので2月にウィーン宮廷楽団のポストへサリエーリが就いた話は既に入って来ている筈で、モーツアルトが自分のポストを狙ってるのは分かった筈だ。
ここで、もし国王へ謁見させて気に入られでもすれば、折角手に入れたポストを奪われる可能性もある。
モーツァルトの方も必死なので、ピエールのご機嫌を取る為に、ピエールが作ったチェロソナタのメヌエットを主題にした変奏曲を手土産にして会ったのだが、当然ながらピエールは相手にしない。
残念な事に、一緒に来ていたリヒノフスキーがウィーンに戻る必要が生じたため、モーツァルトは一緒にライプツィヒまで戻り、5月12日ゲヴァントハウスで演奏会を催しているので、滞在していたのは約3週間程で、その後戻っていないので、意外に短い滞在期間だったが、モーツアルトもウンザリしていたのだろう。
滞在していた間にピエールは相当モーツアルトへ嫌がらせをした様で、モーツァルトに対してフランス語で話すように強要したらしく、「あのフランスのクソ野郎」とか散々なことをモーツアルトは書き残しているらしい。
実は、モーツァルトの父親のレオポルドはピエールに会ったことがある様で、モーツァルトへ『まことにうぬぼれ屋のチェロ奏者』と言う話を手紙で伝えていたらしい。
当然、最初からマイナスイメージはあった可能性があり、ピエールも一介のチェロ奏者から宮廷音楽監督までなりあがった人物ならば権謀術数にも長けていた筈で、実際に会ってみてモーツアルトもそれは分かった為、意外にあっさり帰ったのかもしれない。
この旅の後の1789年の6月にモーツアルトが作曲したのがK.575 弦楽四重奏曲 第21番 ニ長調 「プロシャ王第1」で、その翌年、1790年にK.589 弦楽四重奏曲 第22番 変ロ長調 「プロシャ王第2」、K.590弦楽四重奏曲第23番 ヘ長調「プロシャ王第3番」を作曲している。
結局、この弦楽四重奏曲がモーツアルトの最後の弦楽四重奏曲となり、1971年に死去している。
しかし、同じ業界なので2月にウィーン宮廷楽団のポストへサリエーリが就いた話は既に入って来ている筈で、モーツアルトが自分のポストを狙ってるのは分かった筈だ。
ここで、もし国王へ謁見させて気に入られでもすれば、折角手に入れたポストを奪われる可能性もある。
モーツァルトの方も必死なので、ピエールのご機嫌を取る為に、ピエールが作ったチェロソナタのメヌエットを主題にした変奏曲を手土産にして会ったのだが、当然ながらピエールは相手にしない。
残念な事に、一緒に来ていたリヒノフスキーがウィーンに戻る必要が生じたため、モーツァルトは一緒にライプツィヒまで戻り、5月12日ゲヴァントハウスで演奏会を催しているので、滞在していたのは約3週間程で、その後戻っていないので、意外に短い滞在期間だったが、モーツアルトもウンザリしていたのだろう。
滞在していた間にピエールは相当モーツアルトへ嫌がらせをした様で、モーツァルトに対してフランス語で話すように強要したらしく、「あのフランスのクソ野郎」とか散々なことをモーツアルトは書き残しているらしい。
実は、モーツァルトの父親のレオポルドはピエールに会ったことがある様で、モーツァルトへ『まことにうぬぼれ屋のチェロ奏者』と言う話を手紙で伝えていたらしい。
当然、最初からマイナスイメージはあった可能性があり、ピエールも一介のチェロ奏者から宮廷音楽監督までなりあがった人物ならば権謀術数にも長けていた筈で、実際に会ってみてモーツアルトもそれは分かった為、意外にあっさり帰ったのかもしれない。
この旅の後の1789年の6月にモーツアルトが作曲したのがK.575 弦楽四重奏曲 第21番 ニ長調 「プロシャ王第1」で、その翌年、1790年にK.589 弦楽四重奏曲 第22番 変ロ長調 「プロシャ王第2」、K.590弦楽四重奏曲第23番 ヘ長調「プロシャ王第3番」を作曲している。
結局、この弦楽四重奏曲がモーツアルトの最後の弦楽四重奏曲となり、1971年に死去している。
この作品は「ヴィルヘルム2世から依頼された」と言う話が主流だが、恐らく、先の状況から推測すると違う筈で、モーツアルトの見栄っぱりなところから、依頼されたと言った可能性が高い。
事実、モーツアルトの自作目録には確かに「プロイセン王のために」と書かれてあるが、モーツアルトが1789年の7月12日、プフベルクに宛てた手紙の中には『目下、フリーデリケ王女のためにやさしいピアノソナタ6曲と王(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)のために四重奏曲6曲を書いているのです。 これをすべてコージェルーホのところで私が費用を持って印刷させます。』と言う記述があるらしい。
仮に依頼されたものであれば、自費で出版することは考えられないし、仮に依頼されたものであれば、作品が出来上がった後に、国王へ呼ばれると言う様な何らかの史実が残っている筈だがそう言う記録もない。
結局、ピエールへ対する悔しさ半分、諦めきれなかったモーツアルトが国王へ直接アピールする為に勝手に献呈作品を作曲して実力を認めて貰おうとしたと言うのが事実だろう。
この「プロシャ王セット」と呼ばれる3つの作品はチェロが活躍する弦楽四重奏曲となっているが、これはチェロを弾く国王へ作品を気に入って貰う為にチェロが活躍する曲を作ったと考えられる。
但し、チェロを弾くと言っても国王は所詮アマチュアなので、ピエールを意識して書いた可能性もある。
弦楽四重奏曲であれば宮廷で演奏されるならチェロ名手のピエールが弾くはずなので、彼が弾きたくなる様な曲を作曲した可能性が高く、それを聞いた国王が喜ぶと思ったのだろうが、その願いは実現しなかった様だ。
結局、後世はピエールよりもモーツァルトの方が遥かに有名になったのだが、その時、デュポールがモーツァルトに対して何らかの協力をしていればモーツァルトの生活も随分変わり、作曲活動も積極的に行ったろうから、後世の人はモーツァルトの音楽をもう少し楽しめたのかもしれないが、まあ、人間の運というのは得てしてこう言うものだ。
まあ、そのお陰でチェリストにとって名曲となる弦楽四重奏曲が生まれたと言う事だ。
その後、1797年にヴィルヘルム2世が死去した後を継いだヴィルヘルム3世は、猟色家だった父親の事を非常に嫌っていて、即位すると父親の愛人達を宮廷から追放した様で、恐らく、父親の好きだった宮廷楽団も当然以前の様な状況とは変わった筈で、特に父親のお気に入りだったピエールの扱いも変わったと思われる。
ピエールに関するそれ以後の話が見当たらないのもそう言う理由だと思うし、想像だが晩年はそれ程恵まれて無かった可能性が高い。
まあ、そのお陰でチェリストにとって名曲となる弦楽四重奏曲が生まれたと言う事だ。
その後、1797年にヴィルヘルム2世が死去した後を継いだヴィルヘルム3世は、猟色家だった父親の事を非常に嫌っていて、即位すると父親の愛人達を宮廷から追放した様で、恐らく、父親の好きだった宮廷楽団も当然以前の様な状況とは変わった筈で、特に父親のお気に入りだったピエールの扱いも変わったと思われる。
ピエールに関するそれ以後の話が見当たらないのもそう言う理由だと思うし、想像だが晩年はそれ程恵まれて無かった可能性が高い。
現在、ピエールが作った曲で残っているのは先に紹介したチェロソナタくらいで、皮肉な事に、自分が門前払いしたモーツァルトの方が有名になり「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調 K.573」と言う形で、自分の名前が数百年経って残ってるとは夢にも思わなかったろう(笑)