チェロの名手デュポール3 実は弟のルイがチェロの名手だった! | iPhone De Blog

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先に、兄のピエールを紹介したが、本題の21の練習曲を書いたのは弟のルイの方だ

これがルイ



管理職としての能力は兄のピエールの方が長けていた様だが、チェロの腕前の方はルイの方が上だった様で、師匠のMartin Berteauもそう言っていた様だ。

ピエールと違い、ルイは地元のフランスでチェロ奏者として活躍しており、後援者の中にはマリー・アントワネットやボルテールなども居て、ボルテールなどは「Sir, you will make me believe in miracles, for I see that you can turn an ox into a nightingale」と感心したと言う。

「ヒヨドリの中で雄牛を回す( an ox into a nightingale)」と言うのがどういう喩えなのか分からないが、きっとかなりの表現だろう。


これは推測だが、ルイのチェロの才能は兄のピエール自身が良く分かっていたのでは無いだろうか?

当時のチェロの歴史を見てみると、どうもドイツよりもフランスの方が遥かに先進国だった様だ。

ピエールは師匠やルイが居るフランスではチェロ奏者として芽が出ないと言うのは分かっていたのでは無いだろうか?

その為、後進国のドイツへ渡って「本場フランスから来たチェロ奏者!」と言う看板で宮廷の楽団へ入り込んだのでは無いだろうか。

ルイはフランス革命の混乱がある前にドイツへ来たとあるが、当然、宮廷のチェロ奏者として活躍した。

フランス革命が起こり混乱したフランスからドイツへ渡ったのが1790年で、モーツァルトが兄のピエールに会ったのはその前年の1789年の様だがその頃にはピエールは音楽監督となっていた。

推測だが、例えば
「そっちも革命やら何やらで、きな臭かろう?ドイツへ来たら良い仕事があるけんこっちに来んね?」と博多弁では言ってないだろうが、ピエールは兼任していた首席チェロ奏者の座を弟のルイへ譲る為にフランスから呼んだのでは無いだろうかと思われる。

それは「弟思いだから」と言う訳ではなく、権謀術数に長けたピエールの事なので、チェロ好きの国王に、自分が仕事を世話したチェロの名手の弟を近付けておけば、自分の立場は安泰だろう。と言うのが理由だと思える。

もし、これが他の人間だったら自分の身が危なくなる可能性もある訳で、モーツァルトを排除したピエールならではだと思える。

何れにしてもフランスで名手として活躍したルイは宮廷の首席チェロ奏者となったのは間違いないだろう。

デュポール兄弟が同時にドイツへ居た時期はピエールが音楽監督で、首席チェロ奏者はルイだった筈だ。

そこへ、ドイツを訪れて評判が高かったベートーヴェンとチェロソナタ1番、2番の初演を行っているのだが、この初演をした人物に関しては、デュポールとしか書かれてないものが多いが、先の流れから言ってルイであるのは間違いないだろう。

ちなみに、ベートーヴェンがドイツを訪れているのは26歳の1796年の2月から7月頃にかけてで、ピエールは既に55歳。


モーツァルトと会った時にはまだ40代で、モーツァルトも33歳とお互いに年齢も近く、どちらも「何やコイツ?」とライバル心むき出しの頃だったが、既に55歳ともなると、
息子の様な年齢の若いベートーヴェンは寧ろ可愛かったのでは無いだろうか。

性格的にもモーツァルトより、一見実直そうなベートーヴェンは周囲からも可愛がられたかもしれないし、落ちぶれたモーツァルトと違って、
各地で演奏を行って「ただ今売り出し中」で名声を得ているベートーヴェンの場合は、すんなり国王の前で演奏を行っている。

ベートーヴェンが才能溢れる若者であるのは国王も周辺も承知していただろうから、もし、ピエール自身がモーツァルトの時の様に、変な邪魔立てをすれば自分の首を締めることになる。

恐らく、ベートーヴェンへチェロソナタを書かせ
、自分の弟のルイと初演させて、国王へ献呈させると言う企てはピエールが考えたのだろう。

どう考えても、そう言うあざとい事をベートーヴェンがやりそうに無いし、国王は単に初演を楽しんで、献呈して貰って喜んだだけだろう。

後世、この初演を誰がやったなどという辺りが混同されているのは、ピエールが中心となって事を運んだからでは無いだろうか?

但し、ベートーヴェンもこの手の貴族は嫌いだった筈で、ナポレオンが皇帝となった時に、彼へ捧げる為に書いた「英雄」をゴミ箱へ放り込んだのは有名な話なので心の中ではどう思っていたのか分からないが、少なくとも曲を書いたのはルイの素晴らしいチェロのテクニックがあったからでは無いかと思う。

ベートーヴェンの場合はモーツァルトと違いこう言う運はあったかもしれないし、どういう形にしろ、
後世のチェリストにとって大切なレパートリーとなったチェロソナタをベートーヴェンと共に作り出された事は歴史的な偉業だろう。

ルイはその後、1806年へプロイセンからフランスへ戻っているが、この年の7月にプロイセンとフランスのナポレオン軍が戦って破れているので、余程、きな臭い事が嫌いだったと言うのはこれからも想像できる。

57歳の時にフランスへ戻り、Imperial Chapel in Parisの首席チェロ奏者となり、国立パリ音楽院(the Conservatory)の教授になっている。


当時のフランスは既にナポレオンが初代皇帝として2年、混乱も落ち着きつつあったと思われる。

前回のピエールの話でも書いた様に、プロイセンでの待遇も変わった筈で、職を世話した兄貴から恩着せがましくされていた可能性もあるので早くフランスへ帰りたかったのだろう。

しかし、その為にはフランスで何らかの職に就かなければならないが、演奏だけでは安泰な仕事が出来ないのは、現代の奏者も同じだ。

Imperial Chapel in Parisでの演奏以外にパリ音楽院の教授となる為の手土産となったのが「Essay on the fingering of the violoncello and on the conduct of the bow」だろう。

これは、総ページ数で200ページ以上、250年前の当時は当然だが、現代でもトップクラスのチェロ奏法、特に左手に関するメソッドで初版はフランスへ戻った同じ年の1806年となっている。

つまり、フランスへ移る前に準備をしていたのは間違いないし、いつかフランスへ戻りたいと思っていたのも間違いないだろう。

実は、
現在残っている21の練習曲はこのメソッドの第二部として後から付け加えられたものだ。

さて、ルイに関しては皇帝となったナポレオンとの逸話が残っている。

ルイは当時1711年製のストラディのチェロを使っていたが、あるプライベートなコンサートの場に突然ナポレオンが現れた。

そこでルイの演奏を聞いたナポレオン、感激して控室に来て賛辞を述べるまでは良かったが、いきなりルイのストラディのチェロを取り上げて「すげーな~デュポール、こんな悪魔の様な(素晴らしい音色を奏でる)楽器ってどうやって弾くんだ?」と言って、チェロを構えてあーだこーだとやり出したらしい。

ナポレオンの出で立ちは軍服姿なので、靴は当然拍車の付いた軍靴。

そんな物履いて、チェロを足で挟んで構えられた日にゃ、横は傷だらけになる。

その時の様子に「ナポレオンは、まるで(ストラディのチェロを)軍馬の様に(手荒く)扱った」とあるが、日本の文献には「跨って、蹴っ飛ばした」とあるらしい。

相当酷い扱いだったとは思うが「軍馬の様に(手荒く)扱った」と言うのを意訳しすぎたのだろう(笑)

慌てて、「いやいやいや皇帝閣下~勘弁してくださいよ~!」とか何とか言って楽器を取り返したルイだが、時既に遅し、ストラディの横には軍靴の拍車で傷が付いたらしい。

そのチェロはルイの死後、ルイの息子から、2万2千フランでフランスの名手オーギュスト・フランショームへ渡り、「デュポール」名付けられたチェロはその後、ロストロポーヴィチが所有していた。

オーギュスト・フランショームはルイが教授をしていたパリ音楽院で学んでいる為、音楽院へ伝わるルイの左手のテクニックに加えて華麗な右手のテクニックを併せ持つ名手だった様だ。

フランショームはショパンなどとも親しかった事から、ショパンのチェロソナタなどの作曲へも協力していた様で、「デュポール」はベートーヴェンとショパンのチェロソナタの作曲へ関わった歴史的にも価値があるチェロとなっている。

以上、長くなったが、年代と内容を整理することで、
権謀術数に長け宮廷楽団の総監督となった兄と純粋にチェロが好きでそれに人生を捧げた弟と言うデュポール兄弟二人の性格が浮かび上がった。

次回はいよいよ本題のルイの「Essay on the fingering of the violoncello and on the conduct of the bow」の話。