僕がブログで親しくさせていただいているチェリストの諸岡由美子さんのブログに動画がアップされたと記事があった。
僕は諸岡由美子さんの演奏はオカリナのホンヤミカコさんのコンサートで一度しか聴いたことが無いので、早速見に行ったついでにYouTubeで検索すると結構出てくる!
最近公開となった「カルテット」と言う映画があるが、諸岡由美子さんは以前からこの演劇版「カルテット」に出演されていて、そちらの関係の動画やホンヤさんの関係の動画も沢山あったので、こちらへ幾つか掲載する。
ついでにネットを検索していたら、こんな記事を見つけた。
http://homepage.mac.com/kikuhana/stage/stage09/st09b73.html
良くまあこんな記事を公開しているなあと思いつつ、腹が立ったのでここで紹介する事にした。もちろん、紹介した理由はそれだけでは無い。
この書き込みを読んで最初に「全く分かってないなぁ」と言う感想を持った。
自己紹介を見ると、どうも聴く方(見る方)専門で完全なリスナーで素人批評家だ。
まあ、コンサートや芝居に行った回数を自慢してるみたいで、数は正直すごいと思うが、目的は何なんだ?こう言うのに限って偉そうな事を書くし採点までしている。
こんなのに来られてあーだこーだと書かれて勝手に採点までされる方はいい迷惑だろう。
『演奏は、正直言ってフツーだった。』
『フツーに』演奏するのがどんなに難しいかわかって無い様だ。
学生の頃の師匠には「お前、普通に演奏するってものすご難しいっつえ」と博多弁で良く言われていた。
聴いてるだけなんだから仕方ない。言うだけはタダ。「うどん屋の釜」=湯(言う)ばっかりだ。
自分で楽器弾いてみれば分かる。
『私はチェロには、木のぬくもりと同時に抱え込んで演奏する楽器ならではのエロティックさも求めているのだが、残念ながら諸岡の演奏からはそれらを感じ取ることが出来なかった。』
ってチェロに何を求めてるんだ??もう、この一文だけで読むに値しない感想だと思ったが、幾つかあながち全く的外れでは無い箇所もあった。
『(前略)今こそ、自分の個性を120%前面に出した演奏をして、「諸岡由美子のチェロって面白いじゃん」とファンをつくるべき。あ、そうか。あの無味無臭な演奏が諸岡チェロなのか。ふーん。だったら私はもう、彼女の演奏は聴かなくてもいいな。残念だけれど。』
彼は「木を見て森を見てない。」
折角年間に沢山の演劇やコンサートへ行っていながら残念なことだ。批評をする為に行ってるのか?
誰それの曲がどうのと言う事ばかり書いてあって、コンサートを聴きに行ってるのに奏者の音を聴かずに、曲のタイトルだけ眺めているのに等しい。
そんな奴は家で好きなCDでも聴いてりゃ良い。
申し訳無いが、プログラムを眺める限りでは、彼が言う作曲家の個性がどうのと言う曲は並んでいない。
寧ろ、チェロの音色を素直に楽しめば良いと言う軽いプログラムの印象だ。
つまり、コンサートへ行って、肝心な音を聴いてないので『無味無臭』と言う感想を書いているが、ここに紹介している演奏が果たしてそうだろうか?
演奏に限らず芸術というのは突き詰めていくと非常にシンプルなものになる。
絵画で言えば水墨画の一筆の様な物だ。
芸術家は如何に無駄なものを削っていくかと言う事に一生を捧げているのだ。
彼は歌舞伎にも熱心な様だし、浮世絵や仏像も好きと書いてあるが一体何を見に行ってるのだろうと疑問に思う。
仏像で例えれば「仏作って魂入れず」で外側だけを見ている様だ。
僕は諸岡由美子さんの演奏の魅力は一つ一つの音を丁寧に鳴らすということに尽きると思っているし、もし行くならその丁寧に作られている演奏を聴きたい。
そこには真面目さはあっても「あざとさ」や奇をてらうと言う点は全くない。当然だが、彼が求めるもの(エロティックさ)を『感じられなかった』と言う感想は正しいだろう。
実際、ビブラートも女性チェリストにしては随分指を寝かせてコントラバスに近い若干ゆっくりしたサイクルで柔らかく掛けている。
大抵は指を非常に立ててピンポイントで速いサイクルで大きく掛けるが、確かにコンクールなどではアピール力はあったとしても、そう言う演奏は長く聴いていると耳が疲れる。
少しサイクルが遅いことで楽器も深く響くし、右手もどちらかと言うとフロッシュ全体を包みこむ様な感じで全弓がしっかり乗った状態なので、これもどちらかというとチェロよりもコントラバスに近い感じだ。
この弾き方なら楽器がしっかり鳴るだろう。
チェロとコントラバスの大きな違いは当然だが弦の太さを含めた楽器の大きさだが、より大型楽器に近い奏法で演奏している訳で、楽器が(深く)鳴ると言う事には随分拘っているんだろうと思える。
その為、チェロの高い弦でも一番下のC線に近い深い響きがしているのだろう。
その真摯な姿勢と音色を聞く為にコンサートへ足を運ぶと言う選択肢もある。
僕はクラシック音楽を数十年やって来たが、実は聴く方は得意ではない(笑)
どちらかと言うと「楽器オタク」でコントラバスが好きでクラシックの世界に居るだけなので、「誰それの曲」と言うよりも「誰それの演奏(音色)」と言う事に興味がある。
僕は自分の楽器の音色を聴いているだけ=ロングトーンしているだけでも幸せな気分になれるが、彼にはそれは分からないだろう。
若干演奏に携わっている立場から言えば、『曲の解釈とか雰囲気とか、そういうのによって音色を使い分けるんじゃないの?』と言う箇所があったが、それなら答えはノーだ。
ベートーヴェンの曲をやれば皆同じ音色で弾くのか?考えれば分かるだろうが、そんな事考えもせずに自分の勝手なイメージだけで物を言ってるんだから仕方ない。
肝心の音色を良く聴きもしてないので、『同じ音色しか出さない』としか書いてるが、逆に言えば、どの曲でもちゃんと同じ音色が出せると言うのは自身の音色と言うのを確立しているから出来るのだ。
惜しい!やはり、木を見て森を見ていない。
動画を検索するために久しぶりに諸岡由美子さんの演奏を幾つか聴いたが、あらためてそう言う印象を持った。
実は「カルテット」の動画でパッフェルベルの「カノン」があったのだが「あ~僕ならこうは弾かないなぁ」と感じた演奏だった。
通奏低音としては若干音色が濃すぎて音楽が遅れがちなのだが、逆にそこに諸岡由美子さんの自分自身に対する真面目さと音作りの丁寧さが感じられた。
前述の彼なら何を弾いても一緒と片付けるところだろう。
ヴァイオリンの名手クライスラーは「クライスラー節」と揶揄されたし、コントラバスの場合はゲーリー・カーと言う名手がいるが、確かに、何を弾いてもゲーリー・カーだ。
だが、素晴らしくないかと言えば、そんな事は絶対に無い。
僕は、表面にあらわれている物だけでは分からないものを感じることが芸術を楽しむ喜びだと思っているし、年間に◯回行ったと自慢気に書いて批評をしている彼はある意味哀れだ。
恐らく死ぬまで高いお金を払って何度劇場に足を運んでも分からないだろう。
ともすれば人は「批評家」となる。これは音楽や芸術だけでは無く、社会や政治の世界でもそうだ。
「自分自身の手」でやったり経験して初めて分かることは多い。
震災にしても経験していない僕には分からないし、現地に実際に行ってボランティア活動をしている訳でも無いので、瓦礫撤去の大変さや膨大な量も分からないが、少なくともそれを各地で受け入れして処理した方が良いと思っている。
前回の記事で「苦あれば楽あり」と言う話を書いたが、芸術でも「楽」ばかり見ていてもその奥にあるものは決して分からないし、仮に自分自身でやれなくとも、それを感じられる心を養いたい。
これは一流でなくともそうだ。例えアマチュアの演奏でも作品でも感じられるものは必ずある。
自分でやるにしてもやらないにしてもクラッシックだろうがj-POPだろうが楽しむという事はそう言う事では無いだろうか。
僕は昔は乱暴者で女にだらしなくいい加減な男だった長渕剛(ちなみに今でもあまり好きではないが)が去年の紅白で唄った歌には感動した。そこには「俺カッコイイだろう」的な傲慢な姿勢では無く、誰かの為に唄いたいと言う魂があったからだ。
僕が諸岡由美子さんの演奏を検索して一番気に入った演奏はこれだったので最後にこれを掲載したい。