羽生選手の宿ではない。
最近、ビルマの竪琴の映画を見た。
その中で歌われる歌の題名がはにゅうの宿である。
はにゅうの宿の歌は小学校の時に教わった。
そして、その歌にまつわるビルマの竪琴の
話を先生から聞いた。
それによれば、日本軍の兵士が敵のイギリス軍に囲まれた時、
もうおしまいだと思い、はにゅうの宿を合唱していたら、
その歌に合わせて、イギリス軍も唄いながら出てきた。
音楽は民族が違えども通いあえる素晴らしいものだと
教わった。
映画ではその後、終戦になっていたことを知らされる。
部隊は日本へ帰るが、水島上等兵だけは
残るというストーリーである。
水島上等兵が残る理由は、あまりに多くの日本軍の
死体がそのまま放置されているので、坊さんになって
弔わなければならないという魂の底から動かされるというものだ。
映画では詳しいいきさつは一切ないが、この映画のビルマは
大戦末期、昭和20年の終戦のころである。
日本軍はすべて大本営の指示で動いていた。
インドのチャンドラボースの要請により
東條英機はインドの独立を支援するために
無理を承知で出兵した。
独立後、日本は絶対にインドを植民地化しないで
支配をしないという約束をしていたので、本当に
無償の援助であった。
これが世に言うインパール作戦である。
制空権ナシ、補給ナシでの無謀な出兵に後の世から
批判を浴びることとなった。
日本軍7万8000人、インド軍1万5000人で侵攻するが、
途中からイギリス軍の制空権にやられ、全滅の危機に
大本営も撤退を始めるが、補給なしであったので、
飢えと病気でばたばた死んでしまい、
生きて歩く姿を見た現地人はまるでゆうれいが歩いているようであったという。
日本軍は6万人が戦死するが、ほとんどが飢えと病気であった。
撤退の途中の日本軍の歩いたジャングルや川のほとりなど
多くの日本兵の死体が延々と続き、やがて白骨化して、
これを白骨街道と呼ぶようになった。
今までビルマの政情不安から遺骨の回収も進まず、
今でも放置されているものと思われるのである。
当時、水島上等兵はビルマの竪琴とオームと一緒に
そんな日本軍の慰霊を実行したという小説である。
でもこの本にはモデルがいた。
それは群馬県の昭和村、雲唱寺の前住職
中村一雄であるといわれている。