ナースキャップはかぶりません -2ページ目

一歩前へ


引っ込み思案な広田少年の一番の思い出は友達とのオシッコ飛ばし大会である。
誰かが一番遠くまで小便を飛ばせるか、学校の帰り道で友達とよく競い合ったそうだ。

日頃は引っ込み思案の広田少年だったがこの時ばかりは輝いた。両足を大きく開いた広田少年の股間からはキラキラと輝く小便のアーチがかかる。誰よりも遠くへ、誰よりも美しい放物線を描いて飛ばしたオシッコの架け橋は広田さんの数少ない『目に焼きついた』思い出である。



入院患者さんで広田(仮名)さんと言う男性患者がいる。


僕は広田さんの背中を押すべきなのか、広田さんが自ら前に出るのを待つべきなのか、そのことで少し悩んでいる。


広田さんがあと一歩前に出ることができたらいいのだけど、広田さんはなかなか自分からその一歩を踏み出してくれない。

広田さんが自ら一歩を踏み出すことができたなら、きっとうまくいくはずなのに。その一歩を踏み出せないせいで広田さん自身も、そして僕も困らされることになるのだから……。





広田さんは歩く際に白い杖を持って歩く、視力に障害があるからだ。幼い頃に病気で見えなくなったらしい、光を感じることはできるが人の顔を判別することは難しい。それが原因かはわからないが幼い頃から引っ込み思案で、それは青年になっても治らなかったそうだ。あと一歩を踏み出すことを躊躇してしまうことが度々あったのだ。

もしも……


あの時、勇気を出して『好きです』と、みつ子に伝えることができていたら……


あの時、勇気を出してみつ子のおっぱいを触っていたら……


あの時、あそこを出してみつ子の……(以下自粛)


青年時代を悔やむ広田さん。あと一歩、あと一歩前に出ることができたなら、広田さんの人生は変わっていたかもしれない。
70歳を超えた今では髪は白くなり、顔には皺が増えた。そして自分の人生を振り返りながら、広田さんはやはりあと一歩を踏み出せないでいる。


広田さんがトイレに行く度に、広田さんのオシッコは便器まで届かずに床に垂れてズボンを濡らす。

少年時代、誰よりも輝いていた放物線。誰よりも遠くへ飛ばすことができたはずの小便。かつてダムの放水の様であったそれは、今では岩清水のように前方向へ飛ぶことなくズボンを伝わり床へと流れ落ちる。



だから広田さん。ちゃんとズボンを下ろしてあと一歩便器に近づいてオシッコしようよ。

     


    いつも広田さんの背中を押したくなる。





頼む、広田さん。もう一歩前へ――。



『またズボン汚れちゃうって!!あーーーほらまた!!!』

――――――――――――――――

最近話題の『心を整える』を貸してもらって読んでいます。 プロアスリートのストイックさに関心しながらも長谷部選手の人間臭さだとか弱さだとかが垣間見えて好感を持ちます。

その中で『愚痴は言わない』みたいなのがあって、名前が山愚痴になりそうなほどいつも愚痴っぽい僕もなるべく愚痴を減らそうと思ったのです。

それで今日、GW中の課題が増えたことに対して決壊したダムのように愚痴が次から次へと溢れ出てきました。
僕の意思は豆腐の様に硬い――。

そんなことを思ったわけです。


課題なんか大嫌いさ。



嫌なことでもやらなくちゃいけないんだけど、誰か僕の背中を押してください。いや、崖の上とかで押さなくてもいいからさ……

おわり。

大切な壷


大きな壷があります。
幸せを呼ぶツボです。30万円のところを今なら10万円で……


そういうのじゃなかった(汗)



大きな壷があります。
この壷に石を一つひとつ敷き詰めていきます。

バケツ一杯の石が壷に入り、壷がいっぱいになりました。
『この壷は満杯でしょうか?』


まだ入ります。


次は壷に砂利を入れます、最初に入れた石と石の間を砂利が埋めていきます。

バケツ一杯の砂利が壺に入りました。
『この壷は満杯でしょうか?』

やはりまだ入ります。

今度は壷に砂を入れます。バケツ一杯の砂を。

『これで満杯でしょうか?』


いえいえ。


次は壷のふちまでなみなみと水を入れます。


この壺はあなたの人生そのものだと思ってください。

あなたがどんなに一杯いっぱいだと思っていても、時間に余裕がないと思っていても。
工夫すればまだまだ余裕があったりします―――





と、いう話ではなくて。


どんなに工夫をしたとしても壺はいつか満杯になります。
詰め込めるものには限りはあります。


人生だって同じ。


この話で本当に言いたいのは、壷に入れるのは人生にとって大切なもの。



“先に大きい石を入れないと、あとからでは入れられなくなる”
ということ。



人生にとって大きい石とは仕事や夢、愛する人や家族。
大切にする大きな意思。


自分にとって一番大切な大きい石をまず最初に入れる。さもないと、大切な石を入れられなくなってしまうから。


自分の人生で一番大きな石はなんだろう……


――――――――――――――――


学生生活も残り2年になりました。最近よく卒業後のことを考えます。

このまま今の病院で働くのか、もっと大きな病院で働いてみたい気持ちもある。やっぱり高齢者福祉はやりたいのでいつかは在宅とか施設をやりたい。


『まだ若いんだから、焦らずやればいい』と言われるけどそろそろ自分がどうなりたいのか具体的に考えてそれに向けて行動しなくちゃいけないと思う。


自分にとっての大きな石がどれなのかはっきりさせなきゃいけない。




なんて難しく考えなくても自分が一番楽しいと思うことをやってたら幸せなんだろうけどさ。


良い悩みだ。もっと悩め、俺。


おわり

あたらしい仲間が




震災以来、日記を書こうとするたびに途中で書けなくなってしまう。


世間では自粛ムードが広まっていて普段は何気なくしていることが不謹慎なことのように思えてしまうのです。


それは日記にしても同じで、自分の言葉を形にすることで誰かが傷つくのかもしれないと思ってしまう。
べつに僕の書く日記なんか見ている人は少数だし、大したことも書いていないのだけど、それでも神経質になってしまうのです。

うまく言えないけど、たとえるならたまにしかしない大掃除みたいなもので。
もともと汚れていたら気にならないのに、その汚れを綺麗にしたら普段は気にしない小さな汚れに対して妙に神経質になってしまう感覚に似てる。考えれば考えるほど神経質になってしまう。









今回の地震により、僕の住む石川県は全く被害がなかった。そして僕の知っている人たちにも大きな被害はなかった。それを喜ぶべきなのか、はたしてどんな感情を持つべきなのか考えたけど答えはわからない。
自分にできることを考えるたびに自分の無力さを実感し悔しいと思った。それなら自分はどうなりたいのか、それすら答えはわからなかったし、今だってわからない。

『自分にいま何ができるだろう』

テレビでも何回も聞いた言葉だし、自分の中でも何度も反芻した言葉だ。





以前から災害時医療に興味があった。
被災地で自分にもできることがあったらいいと思っていた。




だけどテレビなんかで東北の惨状を見ると被災地で自分を保てる自信はなくなった。
自分のこともままならない状況で、食べものも寝るところも、風呂もない。自分の身の安全すら保障されていない状況で他人の世話ができるのだろうか。

できないだろうな。

結局、自分は安全なところから偉そうなことばかり言う偽善者じゃないか。



そんな風に思ったりもするけど、それ自体が思い上がりじゃねーか。

できないから今学校に通って勉強してるし、病院でも毎日失敗して少しづつ一人前の看護師になろうとしてるんだ。


悔しいけど、いっぱい考えたけど、今はなんもできない。俺なんもできない。
いま自分がやるべきことは被災された人たちのために何かをとかじゃなくて、自分の事を精一杯がんばることなのかもしれない。
ちゃんと勉強して頼りになる看護師になって、そしたらそのときに僕にも何かできることがあるかもしれない。





そう思って割り切ろうとするけど、割り切るとなんだか自分の中で震災が風化して行くような感覚が嫌だし、イマイチ消化不良……



原発とか被災地での犯罪だとか問題もたくさんあってなかなか復興が進まないけど早く全部解決して、早く日本全体でポポポポーンって言いながら笑ってられるようになってほしい。




おわり